一ノ瀬はじめについて
うつつ
今日は一日、いろいろあったから。
眠れなくてもしかたがないのかもしれない。一向にやってこない眠気をあきらめて、風に吹かれるつもりでベランダへ出る。
一号室にはまだ灯りがついている。幼稚園の訪問から累を迎え、つもる話はまだまだ山のようにあったけれど、明日もきっと忙しくなるのはわかっている。解散したのはもう二時間は前のことだ。
まだ誰か起きているのかとリビングをのぞいてみれば、机につっぷした清音と、そのそばで何かを読むはじめの姿。
こつこつと小さく窓をたたくと、顔をあげたはじめと目があった。
* * *
すでにガッチャマンの正体は広く世間に知られてしまった。それならば積極的に出ていくべきだ。
その第一歩としての幼稚園行きだった。うつつだって何も考えずに同意したわけではなかった。のに、目的の建物を見あげてふと冷静になってしまえば、足はみっともなくすくんだ。「どうしよう」の五文字で頭がいっぱいになる。
身近にちいさな子供などいない。清掃ボランティアの一員として足を運ぶ公園では毎日のようにすれ違うけれど、言葉を交わしたり、まして一緒に遊んだりなんてことはしない。
どうしよう。
どうすればいいの。
名前も何も知らない、初めて会った子供といったい何をして、どんなふうに時間を過ごせばいいの。
わらにもすがる思いで自分の幼い頃を振り返りかけて、あまりの意味のなさにすぐやめてしまう。誰かと遊んだ思い出なんて、ないに等しいのだから。
まだ遅くはないかもしれない。メンバーから外してもらおうかと口を開きかけたうつつの手を、はじめが握って笑った。
「……なに」
「走り回って遊ぶのはぼくらが引き受けるんで、そういうのがあんまり好きじゃない子をお願いしたいっす! たとえば絵本読んだりお絵かきしたりー、そうそう、折り紙なんてのもいいと思うっす。お砂場遊びも楽しいんすよー」
「えっ……」
「それじゃあ皆、行くっすよー!」
結局そのまま、離して、と口を挟む間もなくそのまま幼稚園へと連行された。
* * *
「あー、今日はほんと、楽しかったっすねー。みんな元気よくていい子ばっかりで」
ベンチにふたり並んで腰かけて、はじめは大きく伸びをする。そして走り回って疲れているだろうに、楽しかったとくりかえしては笑う。
「うつつは? 幼稚園、楽しかったっすか?」
「うん。楽しかった。……疲れたけど」
うん、とすんなり頷くうつつにはじめは少し驚いたようで、それでも「ならよかった」と笑った。その笑顔に、ほわり、とあたたかいものがうつつの胸に広がっていく。
直前で後悔したし緊張もしたけれど、うつつは今日の幼稚園訪問を楽しいと思ったまま終えることができた。
膝に乗せろとねだった子も読み聞かせをせがんだ子も、皆それぞれ素直に可愛く、どの本を読むかで喧嘩が始まってしまったのには困ったものの、概ねつつがなく過ごせたような気がする。
ほんの少し前のうつつであれば、そんな光景は考えられなかった。自分でもその変わりぶりにまさかと目をむくくらいだ。
嬉しい、楽しいと感じるものが少しずつ増えて、その一方で変わらず果たすべき任務もあって、うつつの日々はとても充実していた。
「大丈夫。……ちゃんと楽しかったから」
「……? どうかしたんすか、うつつ?」
「なんでも、ない」
「ほんとに?」
今日が――幼稚園でのふれあいが思っていた以上に楽しくて、笑い声に囲まれていた分だけ今が静かで、だからだろう、余計にその反動がでそうになる。
隣りあって座るはじめの手があたたかくて、わけもなく泣きたくなった。
はじめと出会って変わっていく自分が、こんなにも嬉しい。変わっていけることが喜びだった。そこに恐れはない。
けれど逆としてはどうだろう。はじめにとっては、どうなのか。それを考えると、うつつの心は悔しさに沈んでしまう。
はじめが変わることなんてあるのだろうかと、うつつは小首をかしげてそっと隣をうかがう。もしかしてガッチャマンになって、以前の――ガッチャマンになるより前とは違うはじめになったなんて可能性が、ほんの少しだってあるのだろうか。
だったらいいのにと思ってみても、ため息しか出てこない。
だってはじめははじめだ。ガッチャマンであってもなくても一ノ瀬はじめは一ノ瀬はじめで、きっともうずっと前からはじめであって、もしかしたら生まれたときからそのままであり続けたなんてこともあるのかもしれない。
はじめは今いるメンバーの中で最後にガッチャマンとなってここへきて、つまりうつつは今の、すでにはじめになりきった彼女のことしか知らない。
うつつの右手は命を奪う。いくらコントロールできているつもりでいても、人の命を吸ってしまうことも、そんな力を持っていると誰かに知られることも、恐ろしくてたまらない。
不用意に触れることがないように、ときには手袋をはめ、ひたすら隠し、人との接触だって極端に避けてきた。ところがはじめはそんなうつつのそばへついとやってきて、ためらうことなく手を取ってしまう。
「……はじめは、こわく、ない、の?」
「ぜーんぜん。こわくなんてないっすよー」
「……そう」
あっけらかんとした声が返ってきて、胸がふるえた。
きっとそこに、たいした意味なんてない。女同士で手をつなぐなんて、小さなじゃれあいだ。ただ単に、それがうつつには何よりも大きな意味を持っているという、それだけのことだ。
手を引かれ、そうやってはじめに連れ出された先にあるのはいつも、光にあふれていて、明るくて、たくさんの声がして、身をすり抜けていく風は穏やかで。驚きに満ちる、人が生きて笑う場所だった。
「……いいなあ」
たまらずそうぽつりとつぶやくと、はじめの視線がちろりと上がる。どうしたのと問いかけてくるその瞳はやわらかい。
こういう視線を慈愛に満ちた、というんだろうと思った。そういう視線も好きだけれど、うつつはもっと、いろいろなはじめを見てみたかった。
独り言だから聞き流して、と断ってから口を開く。
「わたしだって、はじめに何かを教えてみたかった」
独り言と言っておきながら、はじめの答えを期待して、拗ねたような口ぶりになっていた。表情はきっと拗ねるなんて可愛らしい仕草よりもずっと、暗いものだったに違いない。
今のはじめはすでに完成されている。そこに入りこめる余地が――はじめを変えるだけの部分がうつつに残されているとは思えない。
もっと早く、はじめがはじめになる前に出会っていたかった。そのそばで生きて、互いに影響をあたえながら、はじめがはじめになっていく様子を見ていたかった。
「わたしがはじめに教えてあげられるようなことが、なにもないの。もらうばっかりなの。なんにも返せない。……それが残念で、さみしい」
うつつははじめがガッチャマンになってからのほんの数ヶ月を知っているだけで、好きなものも嫌いなものも、知らないことの方がずっとずっと多いのだ。はじめが生まれて生きて、何を見て何を考えてその結果いまのはじめになったのかなんて、欠片だって知りはしない。
それがとてもさみしくて、これから少しずつ知っていけばいいなんて気休めも、今夜ばかりはちっともうつつをなぐさめてはくれない。
しばらくの間よしよしと頭をなでられて、やがて静かに体を離される。もう休めと言うことだろう。どうやらうつつの独り言に応えてくれる気はないらしい。
「さあ、うつつも、もう寝るっすよ」
「……うん」
いくつもの星を滅ぼしてきたという敵はちょっとピンとこないくらいに強大で、それでも怪我を負った仲間の姿を思い出せば、今こうしている時間が明日からも続くとは限らないということだけは間違いない。
でもなあ。と思う。
もしこれから先も、未来がずっと続いていくのだとして、今現在うつつがはじめから影響を受けて変わっている最中であるように。その結果、この身にはじめから与えられた言葉の欠片が、これから先もずっと残っていくように。
考え方。仕草。嗜好。行動パターン。
うつつのあたえた何かがはじめを形作る一端になれたとしたら、それはどんなにか幸せだったろうかと思う。
いつか離れ離れになる日がきたとしても、たとえそれが明日だったとしても、そうやってはじめの中に残ることができたなら、どんなにか嬉しかっただろう。
閉まった窓の向こうで手を振るはじめがいる。
「おやすみ、はじめ。……また明日ね」
生き死にをつかさどる両手を見おろし、考える。
こんなにも強く、生きてみたい、と思った。
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幼稚園を訪問し、累くんを迎えて、清音が一号室のリビングで日記を書きながらうたた寝している頃。
はじめちゃんを形作る一端になりたいうつつちゃん。