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適温の距離
しつこい風邪が世間を騒がせていた。
咳も鼻水もさしてひどくはならないくせに、熱だけがとにかく高くなる。しかも夜の間にあがった熱は朝日と共に微熱程度になり、また夜を迎える頃に上昇する。日々の生活に追われた現代人が「これなら大丈夫そう」と学校や仕事に出かけてしまうため、いつまでも居座ってはその猛威を振るう。
もう木枯らしの足音も近づく季節だというのに、夏風邪もかくやと言うほどしつこい風邪だった。
* * *
清音がそんな風邪を患ってもう三日目になる。さすがに学校は休んでいるものの、ずっと寝ているのにも飽きてきた。
「今日は立川? それとも豊洲?」
『立川にいるよ』
「なら夜は一号室で食べないかってリーダーが言ってる」
『うーん。少し考えさせて』
累とそんなやり取りを交わしたのは午前中の話だ。夕方になっても戻らないレスポンスが気にかかり、実際もう夕食の準備に取りかかるべき頃合いになったのもあって、清音は返事を催促するよりは直接聞きに行こうと一号室を後にする。
連絡だけは毎日のように取り合っていても、清音が学校を休んでいるせいで、風邪菌をもらってきたと思われる先週末のイベント以来、もう三日は累と顔を合わせていなかった。目指す三号室までは数歩の距離しかない。けれど靴を履かなければ会えない微妙な距離。
「いらっしゃい」
三号室のリビングに足を踏み入れた清音は机の上に置かれたモノを視認して――というよりは、部屋中に漂う臭いに気づいて――眉をひそめ、そんな清音を見て累は「バレた……」とでも言いたげな様子で清音から目をそらした。
「……爪の予備がなくなってたの思い出して。息抜きに」
「だから?」
「……はい。塗ってました。ごめんなさい」
自分の部屋だろうに、累は清音の視線を受けてどことなく居心地悪そうにしている。
悪いと思う気持ちがあるだけまだマシなのかもしれない。キッチンへ向かった清音が換気扇のボタンを押すと、累も自分から立ち上がってベランダの窓を開けた。秋の澄んで冷たい空気が、心地よく暖まっていた部屋に流れ込んでくる。
「この際だから清音君、もう一度言っておくけど、シンナーを多少嗅いだからといって僕は別に頭が痛くなったことはないんだよ」
「俺は君がマニキュアを塗ってるそばで頭が痛くなったことあるけど」
「でもさっきまでここに清音くんはいなかった」
「今いるよ。それに頭が痛くなるならないの問題じゃないんだから」
マニキュアを扱うなら必ず換気をするように。清音が口を酸っぱくして言い続けたおかげで、少なくとも清音の部屋で一緒に暮らしていた間は累もきちんと換気をするようになっていたのに、離れて暮らし始めた途端にこれだ。小言だって言いたくもなる。
「まったく……」
とはいえ三号室までやってきたのはぶつくさ愚痴を言うためではない。せっかく会えたのだから、風邪をうつさない程度の距離は保ちつつ、もっと普通に話がしたかった。
「そうだ、夕飯の予定は?」
「そうそう。それずっと考えてたんだけど、今夜はやめておくよ。またお邪魔しますって伝えておいて」
「そっか、わかった。……最近また忙しい?」
ゆっくり食事をしている余裕もないのかと累を気遣った清音の気持ちを察してか、累は首を横に振って肩をすくめた。
「それもあるんだけど、今はあまり固形物を食べたい気分にもなれなくて」
「……どうかしたの?」
累のそばへ寄ろうとした清音の視界にふと入りこんだのが、流し台で逆さになって乾かされている卵粥のビニールパックだった。まだ水滴が付いているところをみると、朝か昼か、少なくとも今日食べたものに違いはないだろう。
「もしかして累君も学校休んでた? 胃の調子でも……」
悪いのかと続けたかった清音の足が、勢いあまってキッチンカウンターの脇に無造作に放り出されていた段ボール箱を蹴飛ばした。
「ごめん!」
「あ、いいよ清音君。たいしたものじゃないから別に気にしないで」
割れ物が入っていたらと慌ててしゃがみ込み、箱からのぞいた品物を見て清音は絶句する。印字された伝票の到着指定時間は、昨日の午前中だった。
「これ……」
一抱えほどの段ボール箱にぎっしりと詰まる、レトルトのお粥やスープ、飲料水、サプリメント、紙パックのジュース、そして熱さましの貼るシートに加湿マスク。
それらのアイテムは、日中をほぼ一人で過ごすことになる清音のためにと一号室に揃えられたものと酷似していた。加えて固形物を食べたくない累の発言は、つまるところ彼の体調が清音とほぼ同じ状態であることを示している。
「……風邪? 誰かに言った? いつから?」
「誰にも。二日か三日か前くらいからかな。多分この間のGALAXのイベントだろうね。人も多かったし、清音君もそうでしょ? ……やだなあ清音君、なんでも報告しないといけないとでも言いたいの?」
「そ、そこまでは言わないけど……。俺が昨日『風邪ひいたんだ』って送ったときに『僕も』って言ってくれたら良かったのに」
「……じゃあこれは聞かれる前に答えるよ」
累は清音に背を向けて、普段使いの鞄の中から白い紙袋を取りだした。体調が悪いと知ってしまったからか、どことなく緩慢な動きに思える。
「病院にはきちんと行ったから。ほら、こうして薬だってもらってる。これでいいよね」
「……そういうことが言いたいんじゃなくて、」
「あまり怒らない方がいいよ、清音君。そろそろ熱があがってくる時間でしょ?」
「………」
「昼の間はわりと普通に近いくらい動けてるし、その間にできることはしてる。心配はいらないから」
累の言葉に清音はぎりりと拳を握りしめた。清音は累ほど口が達者ではない。説得しようと口を動かせば動かすほど正論を返され、清音だって間違っていないはずなのに、何も言えなくなってお終いだ。
こうなれば実力行使だと家主の許可も得ず寝室まで入り込み、タブレットと充電アダプタを確保して、そして薬を手にしたまま目を丸くした累の腕を引く。
「ちょ、待って清音君」
「待たない。昼の間にできるだけ体を休めておかないと、いつまでたっても風邪は治らないんだよ。行こ」
「夜は寝てるよ。言ったよね、爪は息抜きだって。まだ他にもやりたいことあるんだから、とにかく離して清音君」
ぐるりと見渡したリビング。確かに壁の一面を覆う大きなモニタにはいくつもの画面が映し出され、清音にはわからないGALAXの何かに累が取り組んでいるのは伝わってくる。けれどそれとこれとは話が別だ。
「嫌だ」
「っ……」
清音の口からはいつになく冷たい拒絶の声が滑り出て、しまったと思いながらも内心の狼狽を隠すように背を向けた。それが怒りであれ何であれ、はっきりと態度に出した方が累にはずっと伝わりやすい。
「……なんでそんなに怒ってるの」
「本当にわからない?」
「わからないわけではないけど、……不思議には思うよ」
「……わかってくれるならいいよ」
後はもう何も言わず、清音は累を一号室へ連れ帰った。
重苦しい沈黙が漂う中、清音の部屋に運んでもらったカラフルなおじやとうどんを半分ずつ食べる。食べ終わる頃には累も観念したのか、「お揃いだね」と笑った。
彼の額には清音と同じく、これからあがるだろう熱に備えて熱さましの白いシートが貼られている。薬を飲み、口元を覆うマスクも含めてほぼ同じ姿をしているのに、清音には累の姿がやたらと痛々しく見えた。
そんな気持ちを押し殺し、黙って寝支度を整える。清音が「おやすみ」と声をかけると、布団を頭からかぶった累のくぐもった「おやすみなさい」が聞こえた。
* * *
案の定その夜も熱はぐんぐんとあがり、清音は眠りと覚醒の狭間で余計なことをあれこれと考え続けた。
襖を一枚隔てた向こう側から聞こえるひそやかな足音と笑い声。にぎやかさの分だけ病特有の寂しさが身に染みたけれど、見やった隣の布団では、風邪をうつしてしまったらと心配する必要のない相手が眠っている。
体調を崩すのは、自己管理ができていないから。その理屈を人に強要するつもりはないが、熱を出した事実そのものが清音を強く打ちのめす。だからこそ、一人でないことが清音を安心させた。
累の不調を一瞬でも喜んだ自分がなんとも情けなく人でなしのように思えて、更けていく夜にうつらうつらと目を覚ましては、早く朝になってくれと願う。朝になればきっとまた熱はさがる。体調さえ落ち着けば、ごく普通に累を案じる自分が戻ってくるはずだ。
累も熱があがって苦しいのだろう、浅い呼吸を繰り返している。そんな姿を見るにつけ、今度は情けなさから一転、憤りに近い感情が清音の内を渦巻いた。それは三号室から無理やりに累を連れ出した時の気持ちに似ている。
風邪をひいたのだと、ほんの一言でいい、なぜ言ってくれなかったのかと思わないではいられない。
実際のところ、風邪をひいた累に同じく風邪ひきの清音がしてやれることはほとんどない。二人が食べたおじやとうどんを作り、諸々の準備をしてくれたのはパイマンとはじめだ。けれどもし、もし仮に清音が健康な状態だったとしたらどうだっただろう。累は清音を頼ってくれただろうか。
「……はあ」
清音は現実の厳しさにため息をつく。累の元に通販の荷物が届いたのは、清音が累に「風邪をひいた」と告げるよりも先の話だ。もしかしたらが生じる可能性などなかった。
ひとつ、どうしようもなくはっきりしていることがある。清音より、そしてこのマンションで暮らす他の誰より、累が一人きりの生活に慣れているということだ。立川に来る以前から親元を離れ豊洲で一人暮らしをしていたのだから当然といえば当然のことなのに、累が拠点を三号室に移してようやく清音はそのことに気づいた。
といって累は何でもできるわけではない。基本的に虫の類には近寄りたがらず、日曜大工に精を出すことはない。けれどあらかじめ部屋のあちこちに薬剤を置き、正当な対価を支払って完成された棚を届けてもらう術を知っている。
自分が風邪をひいたからといって二つ隣の部屋に住む清音に「ついででいいからお願い」と買い物を頼むことはなく、必要そうなものはネットで手配を済ませ、誰にも何も知らせず一人で部屋にこもる。
清音にはそれが悔しく、やるせない。累に頼られたいという、本人にとっては押しつけでしかない清音の独りよがり。誰よりも近い位置にいるはずだと期待して、それが叶わないだけでこんなにもつらくて仕方がない。
おまけにこれから先、累が変わるか清音があきらめるかでもしない限り、また何度でも似たようなことで胸を痛めることになるのだろうと、簡単に予想できてしまう。
なぜ累が一人きりですべてをやりおおせると思うのか、清音にはそれがわからない。高い熱に動けなくなることだってあり得るはずだ。一人で大丈夫な保障はどこにもないはずなのに。そんな人がいるわけはないのに。
――それとも累のそばにいたい清音が、累を一人きりにさせない口実を見つけたいだけなのか。
「………」
出口の見えない思考の迷路からこのまま戻れない気がして、枕元のペットボトルに手を伸ばす。すると清音の動く気配で目を覚ましたのか、累が「僕も」と体を捩らせた。その口元にペットボトルを直接寄せてやる。
「おはよう、もう朝?」
「ううん、明け方もまだだよ」
「……清音君、どうかした?」
清音の気持ちはとてつもなく弱っていて思考は支離滅裂で、表情の見えない闇の中ながら累はなんとなく清音の状態を察したようだった。
「……泣いてるの?」
「まさか」
口ではそう答えながら、泣けたら楽だろうかとそんな風に思った。弱っている姿を見てほしくないときも、そばにいてほしいときもある。累はどうだろう、清音のこんな姿に何を思うだろう。暗くて良かった。冷えピタの貼りついた、ただでさえ冴えない顔をまじまじと見られたくはない。
累の手が、清音の頬をするりと撫でた。
「……つらいんだね、清音君」
「うん、すごく」
「そう……。でも大丈夫だよ、清音君。大丈夫だから」
「……うん、ありがとう」
累は清音よりよほど頭がいい。だからだろうか、清音には累の言う「大丈夫」の根拠がわからない。
自分の為すべきことを自分で見つけ、実行に移すためにXを作り、世界をアップデートさせるために一人で立ち上がった累。四六時中一緒にいるわけではない。重ならない友人関係に、異なる生活空間、そしてすれ違う互いの時間。
累と清音の道が交わることも、離れることもあるかもしれない。交わった先で、離れた先で、朝と夜をいくつも越えた先で二人を待ち受けているのはどんな未来だろう。いつかはこうして二人で風邪をひいた夜のことを、懐かしく思うのだろうか。
そう考えると急にこの時間が尊いものに思えて、清音は言葉を重ねた。
「……今日はごめん、無理に連れてきて」
「いいよ、今はもう気にしてない」
「今はもう?」
「そりゃあ最初はカチンときたけどね。……でももし清音君に知られたらこうなるんじゃないかとは何となく予想できてたから」
「………。予想してたって?」
驚いて清音が問うと、累は小さく声をあげて笑った。
「予想通り過ぎてちょっとおもしろかったよ」
「……GALAXの方は大丈夫そう?」
「多分ね。朝になったら何とかするよ。そもそも本当に邪魔されたくない案件を抱えてたら立川にはいないから」
「……そっか、ならいいんだ」
体調を崩した累が、豊洲ではなくわざわざ選んで立川にいた。その事実は一筋の光となって清音の行く先を照らした。夜の深い闇に迷い込んで、出口などないのかもしれないとあきらめかけた清音の前に差し込んだ希望。
自分の不調を積極的に知らせようとはしないにしても、清音を拒むこともない。清音が累の不調に気づくか気づかないか、最終的にどちらに転んでいてもかまわないくらいのつもりしか累にはなかったかもしれない。それでも清音に気づかれてもかまわないと累がそう思っていてくれたのだとしたら、それは清音にとっては救いがあるどころの話ではなかった。
累に一歩分の距離だけ近づくことを、他でもない累自身から許された。そんな気がして胸が震える。一人で暮らすことに慣れた累からほんの気まぐれにひょいと示された、わかりにくいサイン。
それが累なりの手の伸ばし方なのだとしたら、累も清音に負けず劣らずつくづく不器用な性質だなと清音は思う。そして同時に、気づけて良かったと心の底からほっとした。見逃さずに済んで良かった。累から清音へ向けて伸ばされた手を、正しく掴むことができたのだと思いたかった。
「もう一回眠りなよ累君。朝になれば体調はきっともっとよくなってるから」
「……そうだといいけど。おやすみ、清音君」
「うん、おやすみ。また朝にね」
布団を累の肩まで引き上げながら今度こそ本気で流れ出した涙を止められず、清音は肩を震わせた。
累を大切にしたい。一人ですべてを背負いがちな彼のすぐそばで、できる限りの支えとなって、一緒に笑っていたいと切に願う。そしてその安らかな眠りが、少しでも長く続きますようにと祈った。
あふれる涙はそのままに、枕元のコップを手にそっと部屋を抜け出す。水道から直接注いだ水はぬるく少しカルキ臭がして、でも生きている味がした。カラカラと乾いた体に染み込む一杯の水。
熱を出してはうなされて、物思いにふけっては与えられた言葉にどうしようもなく心を揺さぶられる。寂しくては泣き、嬉しくては泣き。沈んで浮いて、こんなにつらい経験はもうこれっきりにしてほしいと、そう思いながら飲む水の美しさ。
「朝……」
ブラインドの隙間から光が差し込んでいる。秋の長い夜が明けようとしていた。
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すがるいアンソロより再録。
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