|
一緒に帰ろう
できることならば。
もう一度、最初からはじめたかった。
くるりと後ろへ向けて走り出したい気持ちをどうにかなだめ、見あげた高層マンションは地上48階地下1階。部屋数は千を超える。立川でガッチャマンが住まうマンションよりもはるかに高くそびえるそれを清音が見慣れるにはまだまだ時間が足りていないようで、どこか威圧感のようなものすら感じてしまう。
このままここへ帰ってもいいだろうか。
この数時間、何度も頭の中で繰り返した問いを、清音はまた飽きもせず自答する。
それでもやはり、朝の時点で荷物の大半を置いて出てきた清音の戻る先は立川ではなく、ここ豊洲である。せめてもの気持ちとして、通りすがりの店でいくつかきらびやかなケーキを見繕ってはきたけれど、果たしてこれで累は喜んで――そして、清音を許して――くれるだろうか。
箱に入れてもらった保冷材は近場だからと30分。じりじりとタイムリミットは迫っていた。
* * *
しばらく前から不穏な気配をかもし出していた一号室の水道管が水を噴き出したのは、一週間ほど前のこと。
シャワーや洗い物の最中で急に水が細くなってみたり、そうかと思えば勢いよく流れてみたり。とはいえ切羽詰まっていたわけではなく、今すぐどうこうなるようにも思えないからと全員でのんきに構えていたのがいけなかったらしい。
限界は思っていたよりも間近にあったようで、ついにキッチンから水が噴き出した。屋外の噴水ならまだしも、屋内での水柱なんてめったに見られるものではない。
はしゃぐ子供たちを避難させ、呼ばれた業者が応急処置を終えた頃。水をかぶった室内を見てパイマンは決めたそうだ。
「はあ。それでリフォーム、ですか」
「言ってしまえば修理だがな」
うつつやはじめほど託児所の手伝いをしていない清音は気づいていなかったが、ここはあくまで一般の家庭が入居することを前提に作られた部屋であって、幼い子供を常時あずかる場としてはあまり歓迎できない部分もあったらしい。
なんにしても幼子の安全が第一である。その点については清音にも否はない。
問題は、そのリフォームが急遽決まったことであるため、作業がすぐには始まらないということだ。水濡れの被害にあったのはキッチンとリビングの壁が少々。階下への影響もなく、各人の部屋はまるごと無事である。とはいえ眠るだけなら問題ないにしても、水の出ない部屋で何日も暮らすことは難しい。
マンションの13階をガッチャマンで貸し切っているのだから、ほかに空いている部屋なんていくらでもある。ただ普段ほとんど使っていない部屋は埃だってひどいもので、比較的マシな部屋には託児所パイパイが仮住まいすることとなった。
「その間、私はO・Dの部屋に世話になろう」
「ぼくもうつつの部屋にお邪魔するっす!」
同室のふたりはあっさりと結論を出し、残るは清音だけ。思案の結果、清音は二号室でも三号室でもなく、豊洲の累を頼ることにした。
二号室におしかけるには、さすがに人数が多すぎる。なにせトイレも風呂場もひとつしかない。
三号室を借りる手もあるけれど、累の教育係だった丈はやはりめったに帰ってこず、累は豊洲に、つばさとゲル・サドラは新潟に。リフォームという事情があっても、本来の住人が不在の部屋を使わせてもらうのは気が引ける。
清音の通う大学まで、立川からはおよそ一時間と四十分。対して、豊洲からは三十分程度しかかからない。乗り換えも通学には豊洲の方がずっとずっと便利だ。大学の友人の部屋に泊まらせてもらうには、一ヶ月という期間がネックになる。間で任務だって入るだろう、夜間の出入りが激しくなっては申し訳ない。
そうやっていくつも理由をあげてみたけれど、清音はごくごく単純に、累とまた一緒に生活してみたかっただけだ。
そんな単純な理由で避難先として累のマンションを安易に選んだ一週間前の自分に、たった一言でいい、もう一度よく考えてみろと物申したかった。とはいえもう一度じっくり考えてみたからと言って、清音が累のマンションを選ばない道もないだろうとは思うのだけれど。
およそ一ヶ月の期限付きではじまった清音と累の二人暮らしは、さぞ楽しいものになるだろう。と思っていた。たまにはCAGEにも顔を出すだろうが、帰る場所が立川から豊洲に変わるだけだと簡単に考えていたのだからお目出度い。現実とは思うほどうまくはいかないものだ。なんてせちがらい世の中か。
冷静になって考えてみれば、他人同士が一つ屋根の下で暮らすのだからそんな簡単にいくはずもないのに、累とだったら楽しいはずだとなぜか無条件に思っていた。
期間が決まっているからというのもある。何か問題が起こったとしても、さしあたってこの件は終わりの日が定まっている。限られた時間を大切に、互いに互いを気遣って生活できるだろうと思っていた。
だってそんなの今さらだ。
もう一年以上は前になるけれど、一つ屋根の下どころか六畳にも満たない小さな部屋で数ヶ月の間ともに寝起きしていたのだから、それこそおはようからおやすみまで、清音と累は互いのすべてを知っている。
累が三号室に移ってからも幾度となく互いの部屋を行き来する、単なる友人よりはもう一歩だけ進んだ仲だと思っていたし、生活パターンも好みや思考も、累について一番わかっているのは、Xをのぞけば自分だという自負もあった。
特別困ることなんて特にありはしないだろうと清音はかるーく考えていたし、それは清音の話を聞いて二つ返事で
「あ、そうなの? 大変だね。別にいいよ、ウチでいいならおいでよ」
と清音の受け入れを決めた累も同じだったのではないかと思う。
「結局は、俺がうぬぼれてたってことなんだよな……」
落ち着いてみれば、生活を共にするといっても、当時と今とではまったく状況が違うことに気づいた。
わくわくそわそわ。
弾む鼓動をおさえ、意気揚々とはじまった二人暮らしにこんなにも苦労するなんて、まさかという思いでいっぱいだ。清音が痛感したのは、累が立川で見せていたのとはまったく違う生活を豊洲で送っているということだった。
累はとにかく、自由気ままだった。それこそ清音が首をかしげたくなるくらい。
野菜の類はあまり好きではなく、それよりはパンやパスタといった炭水化物が好きで、気に入った(かわいい)ものがあれば、飽きるまでひたすらそればかり好んで口にする。それがサラダの類であってもとりあえず可愛いと思えるならば良いというのは幸いだったにせよ、偏食もここに極まれり、と清音は天を仰いだ。
無論、キッチンの主となるのは清音である。
さすがに作ってもらっておいて文句を言うのはどうかと自分でも思うのか、清音の用意した食事には何も言わずに手を付けるが、器についてはあれこれと口を出した。
清音が親子丼を作った日。棚の一番取り出しやすい位置に置いてあるグラス(ちなみにそれは幾度か遊びに来た清音が飲み物を出された、一番よく目にしていたグラスでもある)に食後のお茶を注ぐと、累は
「ちょっと違うかな」
と言って陶器製の、どこにでもありそうなマグカップを棚から登場させた。
なるほど、もしかしたら中身によって決まっているのかもしれない。
そう考えて、今までこの部屋で飲んだものとその時に使用されていたカップを思い出してみるものの、まるで共通点がなく、清音は早々にあきらめた。ちなみに翌実の朝食後、お茶を同じマグカップに注ごうとすると「それも違う」と言われた。
食器の問題だけではない。風呂もなかなかに判断が難しい。
清音はシャワーだけでもかまわない派であるが、湯が張ってあるならばつかることはする。対する累は基本的に湯船派である。一号室に住まうはじめもパイマンも累と同じく湯船派であったので、そのことについて清音は特に何かを気にしたことはなかった。
「あーっ!!」
風呂へ向かった累がすっとんきょうな声をあげた。何事かと風呂場をのぞいてみれば、累は湯船のそばでがっくりとへたりこんでいる。
「ひ、貧血? 大丈夫!?」
慌てて肩を貸そうと近寄った清音を見あげた累が一言「入浴剤」と泣きそうにつぶやくので、さすがに清音も悟った。チョイスを間違えたらしい、と。
清音が湯に放り込んでおいたのは、その日の昼間、一緒に買い物に出かけた先で累が気に入って購入した一品だ。はやく使いたいと笑みを浮かばせた累を見て、清音としては良かれと思っての行為だったけれど、それがダメだったらしい。
累の手には、一見しただけでは菓子と見間違ってもおかしくないパッケージがひとつ握られている。真っ赤な赤いバラのイラストが描かれたそれを使うつもりだったのだろう。
「あー……。……ごめ、ん、累君」
「ううん、伝えておかなかった僕も悪かったよね」
そうやってひとつひとつを挙げればキリがない。
底にほんの数センチだけ残ったペットボトルを放置していたり、包装のビニールをそこらに放り出したまま、買ってきた端末を夢中になっていじっていたら半日が過ぎていたり。風呂上りに乾かされていない髪でしばらく部屋をうろうろしている様子だとか、マニキュアを塗る際に窓を開けようとしない頑なさだとか、挙げればキリがないほど、清音が口うるさくしてしまう理由はそこらかしこにあった。
だから清音は首をかしげる。おかしいなと思う。
累は、こんな暮らしぶりだっただろうか。
清音やほかのメンバーと一緒にいて、ここまで我を通す性質だっただろうか?
立川のマンションには累の気に入ったマグカップが置いてあって、何を飲むにしてもそのマグカップを使っていたし、入浴剤について累がなにか言ったことはなく、ときにはシャワーをさっと浴びて済ませてしまうこともあり、風呂あがりには部屋に戻る前にそのままドライヤーを充てるのが常だったし、マニキュアに関しては清音が口うるさく言ったためか、とりあえず窓は開けるようになっていた。はずなのに。
そうして暮らすこと一週間。
清音は疲れていた。累もなんとなく苛立っているのだろうことは、雰囲気で察することができる。それもそうだろう。清音のやることなすこと、累には不満であるらしい。けれど表立って 言葉を荒げることはない。
そしていってきますと告げて豊洲を発ち、講義を三つほどこなす頃には清音もわかっていた。そろそろ現実を事実として受け入れるべきなのだと。それがどんなにつらいことでも、目を背けてはいけないのだと。
『立川と豊洲の暮らしは全くの別物である。』
ただ、何もかも一緒と思うべきではないのだということだけなら、豊洲へやってきたその日にはもう理解していた。
ベルク・カッツェにXを奪われた累は孤独と絶望の中にいて、ひとりきりで、控えめに言ってもそりゃあボロボロのズタズタだった。
またそれはちょうど清音たちガッチャマンも大いなる敵を相手にひとつにまとまろうとしていたときで、だからこそ、累をひとりで世間の荒波の中へと放り出す選択肢がそもそもなかった。
戦いが一応の終わりを迎えてからも、世間が落ち着くまでにはしばらくの時間が必要な有様で。いつの間にやら累が清音の部屋に居ついていても清音は何も気にならなかったし、累が本当の意味で大丈夫になって、自分から一号室を出ていくと言えるようになるまでは受け入れ続けるつもりだった。
そうやってはじまった清音と累との生活に、特筆すべきトラブルは何もなかった。少なくとも清音はそう思っていた。
換気もしないままでマニキュアを塗る累と、それを叱る清音。そして叱られて拗ねた累が意趣返しなのかなんなのか、夜にふたりの布団を15センチほど離してふて寝するといったことならあったけれど、そんな可愛いもの、清音にとっては苦労でもなんでもなかった。
少なくとも、はじめを一号室に迎え入れたときに清音が経験したいざこざはまだ記憶にも新しく、それに比べれば累との生活はずっとスムーズで、清音と累は同じ部屋で一緒に寝起きし、食事をし、ゲームで対戦し、タピオカジュースを飲みに出かけ、刀を選び、型を教え、そうやって日々を過ごした。
そもそも累との出会いだってベルク・カッツェの影がちらほらと見え始めた頃のことで、親しく言葉を交わした夜は、ある意味激動の夜だった。そうやって始まりが始まりだったから、清音にも累にも、他人と暮らすことについて意識している余裕なんてなかった。――のだと思っていた。
清音の反省と後悔は、期待してしまったことだ。
立川で一緒に暮らしたあの日々。
累と親しくなれたのは良かった。累が少しずつ回復していく様子を見ているのだって、なによりも嬉しかったのだけど。
なし崩し的に――強制的に距離を詰めるのではなくて、もっと時間をかけて少しずつ、お互いのことを知っていくことができたなら。そんなどうしようもない気持ちが清音の中にずっとあったように思う。
進学した清音と復学した累が通うのは同じ学校ではないし、あの頃まだガッチャマンでなかった累は今ではともにスーツをまとって戦う仲間で、物理的にも守られるだけの存在ではない。
良くも悪くも、現実は変わっていくものだ。それをわかっていて、でも認めるのは、なぜかとてつもなくさみしいことで。
清音の隣に累はいない。朝目覚めて真っ先に「おはよう」と告げるのも累ではなく、一日の終わりに交わすあいさつは「おやすみ」ではなく「バイバイ、じゃあまたね」だ。そして清音と累は別々の部屋へ帰っていく。
そんなやりきれない思いを抱いていた中で、降ってわいたようにやってきたチャンス。
もう一度、最初からはじめられるかもしれないと思ってしまった。
累を立川へ受け入れたときと今とでは状況が違う。
あの頃と今がまったくの別物だと理解した清音は、その上で期待してしまった。ふたりで新しく、今の自分たちに合うルールを作っていけるのかもしれないなんて、愚かな望みを持ってしまった。
それは今まさに清音が痛感しているように嬉しいことばかりではなくて、我慢だとか相手への気遣いだとか、場合によっては痛みだって伴うことなのかもしれない。でもそれだって、こんなにも大変なことだろうかと思ってしまう。
どんと来い。
そう決意を新たにするそばから、あまりのうまくいかなさに嘆きの方が勝ってくる一週間だった。苦労しながら作り上げていく過程をふたりで楽しみたいと思うのは、もしかしなくても清音だけなのかもしれない。それを考えるとなおさら気が沈む。
あまりのため息の多さに、隣に座った友達には何度も「疲れてる?」「帰って休んだら?」と声をかけられた。
立川で暮らしていた間なんの不満もなく暮らすことができていたのは、他でもない累自身が清音やほかのメンバーに合わせてくれていただけなのだ。
講義を終えて一人になり、あとは帰るだけという段階になって、清音はどうしようもない気持ちで天をあおいではふらふらと道端のベンチに座る。空は今日も高くて、どこからかやってきた蜻蛉が飛んでいる。
そしてそのままぼんやりと、やってきたバスが客を降ろし、乗せてはまた発車していくのを眺めていた。そうやって何本のバスを見送っただろう。
立川での生活は、累にとってくつろぐどころか、心休まらない生活でしかなかったのかもしれない。
それでもほかでもない累本人が立川に――清音の部屋に――とどまり続けていたのだから、やはり清音の部屋にもあのマンションにも、何かしらとどまるに足るだけの理由はあったのだろう。
けれどその何かが解消されたからこそ、今の累は豊洲に戻ってきた。
今さらながらそのことに思い至って、清音としては罪悪感でいっぱいになるしかない。清音が累との暮らしになんの不満もないと思っていた陰で、累は気を張っていたに違いないのだから。
豊洲の部屋は累名義の部屋で、その累に許されたとはいえ、清音はそこに間借りしているだけの居候だ。あの部屋は、累がどこよりも自分をさらけだしてくつろげる唯一の場所。
その部屋に無遠慮に踏み入って、あまつさえそこに、自分と累とで暮らすための新しいルールを作ってほしいだなんて。そんな要望、累にとっては負担でしかない。
豊洲と立川と、どこへ帰るべきなのかがわからない。いったいどちらへ向かうべきだろう。帰りたいと思うのはどこだろう。
累は豊洲で、今日も清音に「おかえり」と言ってくれるだろうか。
うつうつと帰る先を迷ってはみても、豊洲にかなりの荷物を運びこんでしまった清音の戻る先は、やはり豊洲である。しばらく豊洲で生活するからと、私物も大学の授業に必要なものも一式、段ボールに詰めて送ったばかりだ。
良かったのか悪かったのか、まだ荷解きがさほどすんでいない。荷物を詰めなおし、立川へ送り返し、そして一言でいい、身勝手な望みを持っていたことを累に謝って、そのまま立川へ帰ろう。
こわかった。
家主の累に出ていけと言われたならば、居候の清音は荷物をまとめてすごすご退散するしかない。居場所をひとつ失うようで、想像した未来に心が冷えた。
「もう立川に帰ってよ」
そう言われる前に、自分から出ていくべきだと、気持ちはようやく固まった。累から冷たい視線を投げかけられたら、きっともう耐えられない。
立川に戻って、ほかのメンバーには少し窮屈な思いはさせてしまうけれど、二号室のリビングで寝起きさせてもらおう。
* * *
保冷材ギリギリの時間でマンションのエントランスに滑り込んだ清音は、ここでも散々迷って、渡されていた合鍵ではなくわざわざインターフォンを鳴らした。
呼び出された累はそんな清音に首をかしげ、そして小さく、おかえりと言って笑った。
「た、だいま」
みっともなく声がかすれる。
「ちょうどよかった清音くん、これ運んでくれないかな。僕もう疲れちゃって。あ、ケーキ! そこのおいしいよね。え、お土産? 食べていいの? じゃあちょうどいいし、お茶にしよう」
一息に言い切った累は清音の手からさっとケーキの箱を受け取ると、スリッパをパタパタと鳴らしてキッチンへ駆けていく。
なにがちょうどいいのだろうと見送ったその背中はどう見ても上機嫌で、ところが続いて聞こえてくる言葉はなぜか文句ばかり。
いわく、荷物が届くのが「遅かった」らしい。
なにをそんなに待ち望んでいたのか。足元にひとつ残された段ボール箱は、ずっしりと重かった。
箱を抱えてリビングへ向かってみれば、累は荷物の開封作業の途中だったようで、清音が運んできたのと同じ柄の段ボール箱がいくつも中途半端に転がっていた。
キッチンに立つ累のそばには寄らない。皿もカップもその他諸々も、累に選ばせた方が無難だとわかっている。やがて累はお盆にケーキ皿とフォーク、それから紅茶のティーパックを乗せ、さらに小さな電気ポットを持って戻ってきた。
そのお盆にカップが乗っていないのを見て取って、清音は「指定してくれたら取ってくるよ」と声をかけた。
簡易テーブルにお盆を置いた累はやはり上機嫌な様子で清音の問いには答えず、代わりに清音が玄関から運んできた段ボール箱のひとつを指さした。
「それ」
「……これ?」
「そう。それ」
中身を取り出せということだろうか。
べりべりとガムテープを剥がし、ふたを開ける。緩衝材代わりの丸めた新聞紙を取り出した箱の中には――どうりで重かったわけだ――肥料の袋が三袋と、手のひらサイズよりは少し大きい、プレゼント用の包装をされた箱がふたつ。
肥料はきっと、いつぞやの誕生日で清音がほかのメンバーと一緒にプレゼントしたトマトのためのものだろう。累と一緒に三号室からこの豊洲に移ったトマトの樹。大事にされているのだと思えば、それだけでなんだか嬉しかった。
肥料と箱とどちらだろうと累を見あげてみれば、累はほんの少し頬を膨らませて、「わかってよ清音くん」と肩をすくめる。あざとい。
「それ、あけてみて」
「箱の方?」
「うん」
ふたつの箱を順にあけてみれば、中から出てきたのはどちらもマグカップだった。取っ手も飲み口も色も少しずつ違う、けれど揃いなのだと確かにわかるふたつのマグカップ。
「こっち、清音くんにあげるよ」
「……どうして?」
「ひっこし祝い。で、こっちは僕の」
「……ひっこし、いわい」
「急いでって頼んだのになかなか発送済みにならないんだから、嫌になっちゃったよ」
一週間近くも待たされたのだと累が口をとがらせた。
「前からこれいいなと思ってたんだ。でも清音くん、理由もなしに物をもらうの苦手でしょ? でもひっこし祝いならそのまま受け取ってくれるかなって」
そうさらりと付け加えられて、すごいなと素直に感心した。累の言う通りで、清音は人から物をもらうのがあまり好きではない。
気にかけてもらえるのは嬉しい。準備する時間を自分のために割いてもらえるのも、純粋にありがたいことだと思う。けれど、その気持ちを重く思ってしまうこともあった。
誕生日やクリスマスのような行事でもあるならまだしも、重なれば、気持ちを返す方法を探さなくてはならない。ガッチャマンの存在が世間に明かされて以来、お供え物や貢物のようにして届けられるプレゼントの類が少し苦しかった。
まさかそれを累に気づかれていたなんて、思ってもいなかった。純粋に驚いて、笑う。じわじわと喜びがこみあげてきた。嬉しい。すべての感情が入り混じり、口から言葉となってあふれでる。
「累くんて、もしかして俺のことけっこう好きだね」
「……う、ん?」
なかば信じられない気持ちでそうつぶやけば、目を丸くした累がみるみるうちに顔を赤くさせていった。そこで清音もようやく、おかしな発言をしたと気づく。
「えっ? あ! ち、ちがっ!? いや、違わない、けど!」
「どっち!?」
「ど、どっちって」
「ああああもうほんとに……」
累が大きなため息をついて大仰に天井を仰ぐので、清音も同じようにして天井を眺め、そして累の顔をそっとのぞきみる。
「累くん、顔が真っ赤だよ」
「……ねえ清音くん、それ誰のせいだと思ってる?」
「ええと、俺のせいです。ごめんなさい」
とりあえずあやまってはみたものの、自分の顔がどうしようもなくゆるんでいるのはわかっている。累からはとてつもなく冷たいまなざしが寄こされるけれど、瞳だけでは、彼が照れている様子までは隠しきれない。
「……それくらい僕にだってわかるよ。じゃないとひっこし祝いだなんて言わないし」
「うん。……うん、ありがとう。すごく嬉しい」
「……っもういいよそれ貸して! ゆすいでくる!」
いきおいよく立ち上がった累が、清音の手からふたつのマグカップをひったくってキッチンへと駆けていった。その背中を見送って、自分の両頬を手でたたく。ぱちんと小気味よい音がした。
清音の足元には、置き去りにされた空箱がふたつ。
「ひっこし祝い、かあ」
中に入っていたのは、おそろいのマグカップ。
その片割れを、累は清音のひっこし祝いだと言った。前から目をつけていた品で、なかなか届かなくて苛ついて、今日ようやく届いたふたつのマグカップ。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しかった。
どのみち一ヶ月という期間限定ではじまった二人暮らしだ。なかったことにしてしまうことだってできただろうに、累は今日届いたばかりのそれをひっこし祝いとしてプレゼントしてくれたのだ。
「ただいま。……なに笑ってるのさ清音くん」
「ううん、嬉しいなあって」
「喜んでもらえたならよかったけど」
「すごく嬉しいよ。ありがとう累くん」
「どういたしまして」
ティーパックを入れて湯をそそぐ。落ち着けと念じながら色が出るのをじっと待つ清音のそばで、まだ少しばかり頬に赤みを残した累が――それでも何事もなかったかを装おうとしている――ケーキを物色していた。
もし。もしもの話だ。
もし累が、どこよりもくつろげるだろうこの豊洲の部屋に清音を迎え入れてくれるというのならば。もう少し累からの歩み寄りがほしいなとは思うけれど、清音だってできるかぎり受け入れていきたいと思うから。
だから、だからもう、この際だから。
言ってしまおうか。
言ってしまっても、いいんじゃないだろうか。
そうと決めたら早かった。勢いに乗って口から出たのは、シンプルな三つの文字。あんぐりと口をあけた累が、うろうろと視線をさまよわせた。顔が熱い。自分についてはわからないけれど、累なんて、頬どころか耳まで赤くなっているのが見て取れる。
「ええ、と、冗、談?」
「まさか」
脈があるのかないのかなんて、そんなことまで考えている余裕はなかった。大きく息を吸って吐いて、吸って吐いて。
ああ、このまま心臓が口から飛び出たらどうしよう。
だって叶うなら、もう一度はじめたかった。
ただいまとおかえりを言いあって、一日が終わる間際に見るのは君の顔がいい。そして朝目覚めて、一番におはようを告げる役目を、ほかの誰にだって譲りたくないと、そう思っているから。
「俺、累くんが好きです」
------------------------------------------------------------------------------------------
すがるいアンソロ話のその後です。
|