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どこででも
(そうだ、早く戻らなくちゃ)
1年3組野球部所属、沖一利はふと冷静に自分の置かれた状況を思い出した。
時は7月。折りしも期末考査の1週間前。
たいていの学校は試験の1週間前から考査週間と呼ばれる部活動禁止の期間に入り、ストレス発散の手段を断たれた生徒たちは勉学に勤しむことを余儀なくされる。
そしてそれは野球部も同じこと。特に、赤点を一つでも取った時点で夏大参加をあきらめなくてはいけない以上、部活が休止になったからといってのんびりしている余裕はどこにもないはずだ。
今日も今日とて、野球部は放課後の7組に集まって勉強会を開いていた。
図書館や個人の家でやるのもいいけれど、学校で勉強すると良い点がある。
一つは家に比べて誘惑が少ないこと。一つは疑問点をすぐに質問に行けるということである。
同じクラスの西広はそりゃあ頼りになる。普段からしっかりと勉強しているだけあって、どの科目でも穴がない。しかし残念なことに、試験期間の西広を独り占めできない。
他の誰よりもはるかに西広を必要としている人間が2人いるからである。
西広や花井が問題児にかかりきりになっている間他のメンバーは得意不得意をお互いにカバーしあって勉強する。
しかし今日の数学は阿部でも限界というシロモノで、かといって西広の手を煩わせるのは忍びなく、沖が代表として野球部の専任教師でもある志賀に質問に来たのだ。
志賀の説明ははっきり言って回りくどくて、話が長い。どの部分が結論なのか、いつになったらそこまでたどり着くのか。説明を聞いている間は想像できない。
けれど数学教師志賀の人気は、実は高い。確かにその説明は回りくどく長いが、疑問点をはさむ余地すらなく説明してくれるので、彼の言葉にはとても説得力があるのだ。
解き方だけしか説明してくれない教師より、なぜその公式を使うべきなのかという理由を説明してくれる志賀の存在は、数学の得意な生徒・不得意な生徒のどちらにとっても在り難いものだった。
(でもなあ、急いでるときは困るんだよ)
悠長に説明を聞いている時間はあまりない。まだ試験範囲は半分も残っている。
もともと勉強自体が好きではないしできればやりたくないが、赤点さえ取らなければ良いと開き直ってしまえるほどの勇気もない。嫌だ嫌だと思いつつも、結局は少しでも上を目指して勉学に励むことになるのだ。
そして予定していた質問時間を大幅に超えてしまった原因は、沖が志賀の前でふと漏らしてしまった一言にある。
「どう、これでわかったかい?」
説明のために書いていた紙を沖に手渡しながらシガポが尋ねる。
「はい、よくわかりました。ありがとうございました」
紙を受け取りながら安心する。皆の所へ戻っても、この紙があればきちんとした説明ができそうだ。
安心しつつもふとため息がこぼれる。
「どうしたんだい?まだわからないところでも?」
「あ、いや。質問じゃないんです。ただ・・・・・」
「ただ?」
「なんで勉強しなくちゃいけないのかと思って」
思わずポロリと本音がこぼれる。きっと世の中で試験期間中の高校生はだいたい皆こんな気持ちに違いない。
英語を一生懸命勉強したって外国人に道を聞かれるとは限らないし、まして日常生活の中で二次関数の図を書く機会があるとは思えない。
「う〜ん、それは確かに難しい問題だね」
その答えに少し驚く。新しい発見だ。
「先生でもそんな風に思うんですか?」
「うん、そりゃあ思うよ。誰もが納得する答えは僕も持ってない。でも僕なりの解答をあげることはできるけどね。聞くかい?」
「ええっと・・・・」
(どうしよう?)
早く戻って今聞いたばかりの説明をしたい気持ちはある。しかし志賀の考えにも興味はある。
「はい、聞いてみたいです」
「そうか」
志賀は時間もないだろうし、手短にと言って話し始める。
「勉強って難しいかい?」
「はい、難しいと思います」
苦手な科目は難しいと思うし、だからといって得意な科目で難しいと思うことが一度もないかと問われれば、もちろんそうではない。
「じゃあ絶対に理解できないと思うかい?」
「いえ、そうは思いません」
一人では解けない問題は数多くあるが、志賀や友人の力を借りれば理解することはそう難しくない。その例をついさっき体験したばかりだ。
「学校で教える教科書の内容はね、やる気とある程度の時間をかければ、ある程度のレベルまで誰もが理解できるんだ。確かに人によって そのかかる時間は違うだろうけど、そこは人の力を借りたっていい。できる人間は自分の力でできるところまで進めればいい」
「はぁ」
そんなものだろうか。
確かに一部の天才は除いて、勉強のできる人間はある程度の時間を勉強に割いている。
「勉強する人間はそこに何かしらの価値を見出しているからこそ勉強するんだ。強制されているからといいつつも一生懸命なのはきっと意識していないだけで、本能では勉強が自分を生かしてくれるとわかっているからだろうね」
なんたって世の中は学力社会だ。と志賀は肩をすくめる。
「本当は順位なんてジャンケンでも早食い競争でも簡単に付けられる。むしろジャンケンで決めた方が確率の問題からしても誰にとっても平等でいいかもしれない」
そう言って志賀は別の紙にジャンケンの確率を計算し始めた。4人の人間で勝ち抜きジャンケンをしたとして、1位になれる確率は誰にでも9分の1だけある。
「少しそれたけど、勉強は時間さえかければある程度のレベルまでは誰でも到達可能ということだ。だからこそどのレベルにあるかということでその人物の努力の成果を見ることができる、と思ってる」
そこで志賀はおもむろにこちらを見る。
「生まれつき早く走る能力を持っていたとしても普段から走っていなければその才能の発揮は望めない。持って生まれた能力を最大限生かすための努力も才能だ。だからこそ努力している人に対して人は賞賛を送るんじゃないか?そしてそんな人物に対して自分もその力になりたいと思うものなんだよ」
そう言ってニヤリと笑う姿に沖はある事実を思い出す。
(そういえばシガポはよく部活に来てくれるよなぁ)
基本的に平日の部活動は教師にとってボランティアだ。公立の教師に残業代は一切出ない。
休日の部活については多少出るにしても、1時間300円とか500円とかだったはずだ。そんなアルバイトぜってーやだね、と以前部内でもその話題が出たことがある。
百江は監督として学校に雇われているのだろうが、志賀の存在はもう本当にボランティアと言っても差し支えないのかもしれない。
(シガポはいつ家族と触れ合ってるんだろう?)
仮に部活が終わって夜9時ちょうどに学校を出発し、道が空いていたとしても家に着くのは半過ぎ。子どもはまだ小さいと聞いたからもう寝てしまっているだろう。そして朝は部員と同じ時間にはだいたい学校に来ている。
(シガポってアツイ人だったんだ)
志賀が教師になった理由が少しわかった気がした。そしてこれほどまでに野球部に協力してくれる理由もほんの少し想像できる。
(俺たちが頑張ってるって認めてくれてるのかも)
そうだとしたら嬉しい。その期待に答えたいと思う。
志賀も百江も西浦野球部を甲子園に導くために一生懸命だ。
(当然と思っちゃダメだ。感謝しないといけないし、そのためにも今は勉強しなくっちゃ)
全員で試験をクリアして、夏体に臨めるように。努力の場所は変わっても頑張れるはずだ。
「よくわかりました。俺たち頑張ります!」
その言葉に志賀はニッコリ笑い、長引かせてゴメン。と告げた。
その言葉に予定時間をもう20分も過ぎていることに気づく。教室では他のメンバーが待ちくたびれている頃だろう。もしかしたら別の科目を始めているかもしれない。
「すみません、俺戻ります」
そう告げて数学準備室を後にする。
ま ずはこの手の内にある二次関数の問題を片付けよう。
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