花の咲く季節




「あなたにとって花とは何の花ですか?」

 そんな質問が投げかけられたのは、ある日の古典のこと。
 クラスの人間が順番に当てられていく。花と聞いて最初に思い浮かぶものをどうやら全員答えさせられるようだ。
 向日葵、百合、なでしこ、チューリップ、菊・・・・・。
 あまりメジャーでない気がするあじさいを答える生徒がちらほらいるのは、窓の外に広がる中庭の様子が目に入るからだろう。
(花、ねぇ)
 ここでもし「梓」と発言したら後からこっぴどく叱られるだろうか。名は体を表さない、名前だけなら誰よりも華々しいキャプテンに。
 真ん中から、どちらかというと窓に近い席に座っている水谷の順番はもうすぐ。
 残念ながら日常生活で花を気にすることなどないに等しい。特に高校に入学してからは毎日が目まぐるしく過ぎていくものだからなおさらだ。
 むしろ日々の生活で重要なのは花より……。
「次、水谷」
(やべ!)
 少しぼんやりしている間に順番が来てしまっていたせいで、考えがまだまとまっていない。
(えーと、えーと)
 こういう場合、あせればあせるほど欲しい答えは頭の中から逃げていく。
 そんな脳裏を掠めるのは、入学式の頃のかすかな記憶。
(そうだ、花より団子だ!)
「……さ、桜?」
 それを聞いた初老の古典教師は、嬉々として水谷の回答を黒板に書き加える。どうやらその答えを待っていたようだ。


 グラウンド脇に一本ぽつりと立っている木がある。休憩時間には日光を遮って優しい木陰を提供してくれる大事な木だ。
 入学式にはもう少し緑が出てきてはいたけど、最初の日に静かに新入部員を迎え入れてくれた木。
(あの桜もキレーだったな)
 ちなみに花井の回答はたんぽぽ、阿部と篠岡はバラの花だった。
(しのーかはともかく、阿部はバラって柄じゃねぇよ。似合いすぎてコエーし)
 結局約40人学級のクラスの内で桜と答えた生徒はたったの8人だけで、期待していたらしい教師は少し嘆きつつもその質問の意図を語り始める。


 要約すると、教師の話はこういうことだった。
「日本人にとって花といえば『桜』である」
 平安の古典文学の中では「花」はすべて「桜」を指す。それより以前には「梅」を花と呼んだ時代もあったらしいが、平安以降「花」はすべて桜を示す語として統一された。特別に「桜の花」と示してあることはあまりないそうだ。
 指示されて開いた便覧のページは『小倉百人一首』
   花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にうるながめせし間に  小野小町
 どうやら一人ずつに「花」を聞いたのはこの説明ための導入だったらしい。
(そういや「花見」っていうよな)
 桜の花が咲いた頃を見計らってその下で飲食をし、親睦を深める伝統的な行事が日本には存在する。
「花見しようぜ!」
 そういってチューリップの花を見ることはきっと日本人ならしないだろう。
 花見につられて思い出すのはあの春の日。あれからまだほんの2ヶ月しかたっていないのに、もうずいぶんと前のような気がする。
高校生活でやりたい何かがあるわけじゃなく、入る部活だって特に決めていなかった高校生活の初日。ましてや野球部なんて、数ある候補の中のほんの一つの存在でしかなかった。
 田島ほどの運動神経はないけれど、きっと他の部活でもそこそこの活躍ができただろう。そう、花井が言っていたように別に野球じゃなくてもよかった。野球を本気でやりたいならきっと他の学校に行っていただろうから。
 それでも水谷は、今はいい選択をしたと思う。
 練習ははっきりいってつらい。週一回のミーティングを除く他の曜日はみっちり詰まった濃いメニューをこなすのだ。休みだって試験期間しかない。
 自分が根っからのスポ根少年ではないことは水谷自身が一番良くわかっている。ほしい物もやりたいこともたくさんあるから、もし許されるのならアルバイトだってしたかった。つまりまだまだ遊びたい年ごろなのだ。そんな自分たちがなぜ太陽の下汗水たらして毎日活動しているのか、たまに水谷自身も不思議に思う。
 でも本気でやっているからこそわかることだが、できないことは実は多くある。あの田島だって全ての球を打ち返せるわけではないのだ。
 たまにエラーなんかすると恥ずかしくて逃げたくもなる。


 しかし完璧にできないことがあると理解しているからこそ、自分にはまだ伸びる余地が残されていることも悟る。
 体を突き動かすのはそんな冷静な洞察力ともう一つの思い。
(このチームで勝ちたい)
 そう素直に思える程度には、水谷は今の部活が好きなのだ。
 勝利を真剣に目指すメンバーと一緒に活動できること。こんなに幸せなこともない。
 つらい思いをしただけ、やり終えた後何かが残るだろうか。
 その何かがいったい何なのか、今はまだわからないけど。
(予感がする)
 窓の外では雨がしとしとと降り続いている。きっと今日も校内でトレーニングだろう。

(一生懸命の先に手に入るもの)
 それは勝利の喜びかもしれないし、ともに苦難を乗り越えた仲間かもしれないし、思い出かもしれない。
 その何かを手に入れるために今があるのだとしたら?
(多分、悪くないよな)
 教科書の上でギュっとこぶしを握ってみる。手が熱い。体も熱い。
 興奮するときに働くホルモンは確かアドレナリン。



 今ならどんなボールでも取れそうだ。