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冬の必需品のお味
「お疲れー」
「お先にー」
(よし、今日はいけるかもしれねー)
こそりと花井を見ると、花井はまだ着替えをカバンにしまっている最中だった。
別れのあいさつを口にしてはそそくさと部室を出ていく部員たち。
帰り道にコンビニに寄る日もあればそのまま帰宅の日もある。そそくさと部室を出る部員の姿には皆ある共通の思いが読み取れた。
早く帰ろう。いや、早く部室を出なければ。気づかれないうちに……。
しかし部員たちのそんな様子に気づかない花井ではなかった。
「お前ら帰る前にちゃんと舐めてけよ!」
入り口の机にちょこんと置かれたそれに、何も気づかない振りをしてこっそり帰ろうと考えていた野球部員は頼れるキャプテンの一言に肩をすくめた。
(さっすが花井。ちゃんと忘れねーんだよな)
「カントクのお達しだからな!」
全員なんとも言えない表情になる。部員を呼び止めた花井でさえ何だか複雑そうな表情を浮かべている。
呼び止められて仕方なしに手に取る者・もとからそんなに嫌がってもいないが他の部員に合わせた者・舐めるのが嫌で嫌で逃れようとして捕まる者と、たった10人しかいなくてもその反応は人それぞれだ。
「なぁ花井、今日はそんな寒くないしいいんじゃね?」
監督は寒くなると空気が乾燥してのどを痛めやすくなるから飴を舐めるのだと言っていた。のどを痛めるとそこから鼻につながって風邪を引き起こす原因となる。その理屈でいくなら寒くない日は乾燥していないはず。ならばのど飴を舐める必要性も感じられない。自分でも屁理屈だとわかっているが、言いたくなる気持ちは花井もわかってくれている。
「帰ってちゃんと手洗いもうがいもすっからさ。ダメ?」
一縷の望みをかけてかわいらしく聞いてみても、職務に忠実なキャプテンは許してはくれない。
「手洗いとうがいは当たり前だろ」
(当たり前、ね)
その当たり前のことをしていない自分はいったいどうしたらいいだろう。
空気が乾燥してインフルエンザも流行り始めるこの季節は何より風邪に注意しなくては。監督からの心遣いの証は、部員にとっては嬉しくもあり悲しくもあった。
「あきらめろ。全員一個ずつ食って帰れよ」
にらみを利かせた仁王立ちで全員が口に入れる瞬間を待っている。
仕方なしに一粒手に取る。
「なんでこの飴なのかな」
食べることに抵抗はないけれど、できれば他の飴が食べたいという沖。
『せーのっ』
何ともいえない顔をして一斉に飴を口に放り込むと、何ともいえないあの味が口に広がる。
「もっと甘くてウマイ飴だってたくさんあるのにー」
こんなもの初めて食べたとでも言いたげな水谷。
「そりゃオヤツになっちまうからだろ」
「甘けりゃ喜んで舐めるけど、ちょっとこの味はね」
オレも苦手だよ。フォローするような西広。
「オヤツ代わりに持ってっちまいそうなヤツもいそうだしな」
「うん、それは否定できないけど」
「確かに」
はっきり断言できるヤツらだっている。
(おいおい)
「そこは否定しろよ、オメーら」
部室のあちこちで、口直しのお茶を取り出しオヤツを交換し合う声が聞こえてくる。
「なんでかお前聞いてみれば?」
「ヤダ。だって恐いもん」
田島にも恐いものはあるらしい。
「だよなー」
「あー、マズイ」
「ホント、マズイ」
人間とは不思議なもので、最初はあんなに嫌だったこの味も毎日舐めていれば慣れることを発見した。今では舐めていると甘みさえ感じられる気がするが、最初に受けた衝撃は大きくて、口から出るのはいつだって「マズイ」の一言だけ。決してウマイ飴ではないことだけは、きっと誰が食べても納得してくれるだろう。
でも監督の教育のおかげか、全員コレが他のどの飴よりも効くと信じている。信じてはいるがそんなことはお構いなし。イメージは拭えないまま、いまだに飴を食べるためにある程度の勇気が必要とされている。
部室を出ると用具を運んできた監督が待っていた。一様に並ぶしかめ面達を見て楽しそうに笑っている。
伝統あるこの飴はもとは薬として売られていたモノらしく、今も同名の薬が存在する。一粒に込められた深い歴史を彼女は語った。
「最近はこの飴を置いてる店も少なくなったのよ。コンビニじゃめったにお目にかかれないし。こんなに効く飴はあまりないと思うんだけど」
監督はこの飴を学校からも自宅からも少し離れた大きなスーパーでわざわざ買ってくるらしい。
そこで勇気を振り絞った水谷が素朴な疑問をぶつけてみる。
「でも他ののど飴だってちゃんと効くと思うんすけど、何でカントクはコレがイチバンって思うんすか?」
(お、プロテインのときより成長してんじゃん?)
「だって、良薬口に苦しっていうじゃない?」
いい薬は苦くて飲みにくいのよ。そのにっこり笑顔に逆らえる人間は野球部には1人もいない。
キャプテンの花井をはじめ自分でさえも。
「で、でもコレ高いんじゃ・・・・・」
「そんなことないわよ、普通に売ってる安い飴と同じ位かな」
高いならぜひ普通の飴を買ってください。言外に込められた真意が読み取られることはない。
(いんや、わかっててスルーしてんのか?)
「同じ安いなら甘い飴の方が・・・・・」
「しょうがないよ、だって私の知ってる中じゃコレがイチバンおいしくないし」
あっけらかんとした監督に部員の動きが一瞬止まる。
「オ、………」
「ん?何が言いたいのかな?水谷君?」
危ういところで口をつぐんだ水谷はまるで蛇ににらまれた蛙のよう。
水谷がついつい口に出しかけた言葉がよくわかる。
(オニっていいたかったんだろ?その気持ちわかるぜ)
代わりに確信犯という称号を進呈しよう。
(でもなあ、いくら安い飴っていったって)
ふと気づいてしまった(監督にはよけいなお世話かもしれない)事実に空を仰ぐ。
秋の空はつるべ落とし。秋をとっくに通り越して冬を迎えた空はもうすでに真っ暗だった。
(この飴だってモモカンの自腹なんだよな、多分)
少しずつ小さくなっていく飴を舌で転がす。
「舐めきっちゃったらダメよ!自転車に乗ってる間はずっと舐めとかなきゃ意味がないんだから」
さあ帰った帰った。急かされて各自自転車にまたがり家路を急ぐ。
4月当初についていた部費はボール代に消えた。うちの部活に後援会はまだなく、いくら保護者が頑張ってくれたとしても育ち盛り食べ盛りの高校男児を抱える家庭では応援するにしても限度ってもんがある。まだ年若いこの女性がアルバイト代を野球部につぎ込んでいるという噂は合宿時からあった。きっとあれは紛れもない真実。
プロテインは監督の自腹だった。ならばこの飴だってそうに違いない。
朝と夜の練習の後にそれぞれが1粒ずつ舐めても1日に一袋が確実に消える。
安い飴だと監督は事も無げに言った。でもそれを毎日続けるだけでいったいいくらかかるんだろう?仮に冬の間だけだったとしてもその額は、部員全員の小遣いを足した金額をはるかに超えるに違いない。
(オレらモモカンに頼りすぎてる?本当は体調管理くらい自分でできんだよ)
今までは何も考えることなくその好意に甘えてきたけど。
(オレらはもっと信用してもらえるようになんねーと)
甘い飴なんて置いといたらオヤツに持っていかれてしまう。でも飴でも置いとかなきゃ風邪でもひきかねない。
(手洗いくらいならともかく、オレだってうがいなんか気が向いたときしかしねーし)
自分を基準にするのはおかしい気もするが、手洗いうがいを欠かさないと公言しているのは阿部を含めた数人だけ。
(もしかしたらオレらは体調管理も自分でできないって思われてんのか?)
恐ろしい想像に行き着いてしまっていやいやと首を振る。
「んなワケねーよなぁ」
そうだとしたら心外だ。一人で生きていけるだけの財力も能力もないにしても、自分の体調くらい自分で管理しなくては。
「よし、オレ今日から帰ってうがいと手洗い忘れねぇ」
「なに泉、どしたの?」
手始めに声にしてみる。決意を口にするだけで途端にきちんと実行できそうな気がしてくるから。そんなに大きな声にしたつもりはなかったが、隣を走っていた水谷には聞こえたらしい。
「いーや、なんでも。オメーもやれよ水谷」
「オレちゃんとやってるもん」
「ホントか?でもやっててもどうせ腹出して寝てんだろ?要は風邪ひくなって話だよ」
「ひかないよ。モモカンの飴もあるしさ、これで風邪なんてひいたらモモカンに悪いし」
「だな」
(この冬は絶対風邪なんかひかねぇぞ)
一人二人とわき道にそれて自転車の集団は小さくなっていく。自分もいつの間にか一人きり。飴も舐めきってしまった。
本当に寒さが厳しくなるのはこれから。カメムシの発生具合から考えても今年の冬はきっと去年よりも寒くなるだろう。
でも絶対に風邪なんてひかない。もう決めた。
ちゃんと寝るし、ちゃんと食うし、運動だってするし、手洗いにうがいもする。
(これで風邪ひいたらどんだけ病弱なんだって話だ)
そして忘れちゃいけないアイテムは監督からのプレゼント。魔法の一粒。
(こんだけそろや風邪ひく気はしねーし、ひいちゃいけねー)
危ないのはこの際置いといて空を見上げると、真っ暗な夜空にまたたく星。帰る頃はいつも暗い。こんな中監督は買出しに出かけたりするんだろうか。
(おし!)
こぶしを空に突き上げる。別に誰に見られている訳でもないが、青春真っ只中な気がしていかにも照れくさい。
「健康イチバン!!」
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