―――二年前―――
昼休みがもうすぐ終わる。半分閉じかけていた目を開け廊下側の窓を見やると、隣のクラスの生徒がぞろぞろと歩いていた。みんな教科書を抱えているから、きっと移動教室なんだろうとぼんやりした頭で思う。
「阿部、起きたかー?」
一つ前の席を囲んで喋っていたクラスメイトの一人が振り返る。さっきまでみんなでこそこそと噂話をしていたようだったが、オレは内心、女みてェなやつらだなと思っていたので少しバツが悪く、口の中でもごもごと声にならぬような返事をした。
「なーなー、隣のクラスの栄口って知ってる? あいつのかーちゃん、死んじゃったんだってよ! ヒサンだよなー」
栄口。確かシニアで野球をやってるっていうやつじゃなかっただろうか。顔と名前がなかなか一致しないのだが、クラスメイトの名前もなかなか覚えられない自分にとっては珍しいことでもない。
「なんでお前がそんなこと知ってんの」
「今朝、同じ部のやつに聞いたんだよ。そいつも隣のクラスだからさあ。でももうすげー噂広まってるらしいよ? 何て話し掛けたらいいかわかんねーって言ってたし。かわいそーだよなー」
こいつみてェなやつがペラペラ喋り回っているから噂になるんだろう。ヒサンだの、かわいそーだのと言っているが、てめェら意味わかって喋ってんのか、と腹の中で思う。会話に混ざる気になれず、ふーんと生返事をして机に突っ伏した。つめてーやつ、と小さな声で呟かれたが、教師が来るまで寝た振りをしておくことにした。
うちのクラスでこれじゃ隣のクラスではもっとひどいんだろうから、……なんだっけ、ああ栄口だ、栄口は針のムシロなんだろうな。
* * *
「はい! 今日の練習はおしまい! ちょっと集合してー」
帽子を脱いでモモカンの前に並ぶ。練習は好きだけれど、やっぱりほっとする瞬間だ。今までは麻痺していたのだろうか、さほど感じていなかったはずの疲れがどっと全身を襲う。
「昨日の開会式で花井君と三橋君のお母さんにお会いしたんだけど、正式に父母会を作ってくださるそうです。あとでわたしからも直接お礼を言うけど、みんなも自分の親だからって甘えずにきちんと感謝すること! こうやって練習に集中できるのはご家族の協力があるからだってこと忘れないでね。それと――」
モモカンから今日の練習についての指導が続く。父母会という単語を聞いて、中学時代の記憶がふいに蘇る。あれから話す機会もなかったから忘れかけていたが、栄口は。
部活を終えると自然に全員揃って帰途につく。とは言っても、みんな方向がばらばらだからすぐに分かれ道になってしまう。オレが最後まで帰り道を共にするのは、家が近い栄口だ。
「――なぁ、余計なお世話かもしんねェけど」
胸の内で渦を巻く煙を振り払うように切り出した。しかし、栄口の丸い目が不思議そうにこちらを覗き込むと、散々考えたはずの言葉はもやもやと姿を消してしまう。口を開いては閉じ、目を合わせてはそらす。ぱっと喋ってしまいたいのに、思う通りに動いてくれない自分自身に舌打ちをする。
「何? 阿部がずばっと喋らないなんて、何か怖いじゃん」
にやっと笑って促される。茶化されているのがわかるので歯がゆい。あーくそ、柄にもなく余計な気を回すんじゃなかった。
「だからさ、今日モモカンが父母会できるって言ってただろ。お前んちは……母親亡くなってるし、野球部のやつらは誰もそのこと知らないんだろうし、花井のかーちゃんはきっとお前んちにも連絡するし、そしたら花井本人にも伝わるだろうし、いや花井はみんなには言わねェかもだけど、そのうち親が応援に来るようになったらみんなも気づくだろうし、それに」
「あー、わかったわかった。もうそのへんでいいって。言いたいことはわかった」
「……わり」
思わず息をもらした。どうしてこんなに焦っているんだろう。
空気はほんのりと夏の気配を帯びており、ぬるく穏やかに吹く夜風が憎らしかった。これでは汗が引きそうにない。
「アイス食って行かない? そこにコンビニあるし」
栄口が指差す。最後の一人との分かれ道までは、あと50メートルだ。
バイトもできない貧乏高校生の財布の紐は固い。尋常じゃないエンゲル係数を叩き出す野球部員ともなればなおさらだ。持参する弁当のみで月末まで過ごさなければならなくなったら、とてもじゃないけど体力が持たない。駐車場の車止めに腰掛けながら、60円のアイスをかじった。大人には目をひそめられる光景かもしれないが、疲れているのだ。勘弁してくれ。あんまり夜は混まないコンビニだから許してもらえるだろう。
「オレさ、母親のことはたぶん周りが思うほど気にしてないよ。そりゃ死んじゃったのは悲しかったし、忘れらんないと思う。けど、慣れない暮らしでいっぱいいっぱいだったのも大きいんだよね。オレが野球やってたから、姉ちゃんがほとんど家事引き受けてくれたし、弟もまだ小さかったのに結構手伝いとかするようになったし、親父も頑張って明るくしてんのがわかるんだ。落ち込んでらんないなーって」
栄口は笑う。いつもみんなを励ます”副主将”の笑顔だ。いま元気づけられているのは、オレ、なのか?
「だから気にしなくていいよって、そう言いたいのか?」
視界がゆらりと揺れたように思えた。栄口の笑顔を忌々しいと思ったのは初めてだった。でも本当に忌々しいのは、そんな顔をさせている自分自身だったのかもしれない。
「ふざけんな! てめーがそんなだからわざわざこんな話してんだよ! たまにはなぁ、愚痴ったり弱音吐いたりしてみろっつーの!」
一拍の間をおいて、栄口はこらえきれないというように吹き出した。
「てっめえ、人が真剣に――」
「だ、だって、阿部ってば涙目っ……」
うるせー。つーかいくら何でも笑いすぎだろ。
「ごめんごめん。真剣なのはわかってるよ。けど、阿部が……」
ひーひーと笑いの収まらない栄口に思わず蹴りを入れた。いてーよ、と文句を言われたが、どう考えてもこいつが悪い。
「オレが言いてェのは、部のやつらがお前の母親のこと聞いた時さ、やっぱり急だと何て言ったらいいかわかんねェみたいなことあると思うわけ。で、お前はお前で気を使わせたくなくて、大丈夫だから気にしなくていいよーとか言ってそうやって笑うわけだろ。……何かそういうのって無理してるようにしか見えねェし、こっちもいらつくし、お前がいないとこであらかじめオレが話しとけばいいんじゃねェかと思ったんだよ」
「……オレに気を使ってるのか、自分がいらつくのが嫌なのかわかんないよ、それじゃ」
よっこらせ。じじくさい掛け声と共に栄口が立ち上がる。その頭越しに街灯が明々とこちらを照らしていて、影が落ちた横顔はどんな表情をしているのか見ることができなかった。
「母さんが死んだ時、クラスのやつらとかにさ、大変だねー元気出してねーっていっぱい言われたんだけど、裏でこそこそ噂されてるのも知ってたんだ。別に悪い噂立てられてるわけじゃないけど、やっぱ嫌じゃん。だから心配してくれてるのも素直に受け取れなくなっちゃって、ただの興味本位だろとかひねくれちゃって、それ以上聞かれたくなかったんだよね。大丈夫って笑って見せれば、しつこく心配されなくて済むって思ってたんだ。それがいつの間にか癖になってたんだよなあ」
まあ母親のことで悲しんでますって素振り見せんの、かっこわるいってのもあるけどさ、と栄口は付け足すように呟く。
中学で栄口の噂話をしていたクラスメイトを思い出す。あれが自分の周りで繰り広げられていたら、確かに嫌気が差すだろう。オレだったら怒鳴りつけてしまうかもしれないけど、こいつはそんなことしないんだろうな。何も聞こえない振りをして、話には笑顔で答える、そんな姿が目に浮かぶようだ。
「野球部のやつらはそんなに根掘り葉掘り聞いたりしないだろうけど、――や、田島あたりは聞きたいことあったら遠慮しないかもしれないけど、気を使わせたくないっていうのは確かにあるし、阿部にお願いしとこうかな」
「……おう、んじゃ明日はミーティングだけだから終わったら話しとく。お前は先に帰れよ」
「了解。よろしくな」
あ、また笑った。さっきまでの笑顔とはちょっと違うような気もするけど、それは願望が少し混じっていたからかもしれない。
「うーし、明日も早いし帰って寝るか」
立ち上がって尻に付いた砂を払う。オレは私服通いが面倒で制服を新調したから、あんまり汚したくない。つーか汚すと怒鳴られる。甲高い声でギャンギャン喚く母親の顔を思い出し、思わず顔をしかめる。
んじゃまたなー、寝坊すんなよー、と言い合ってそれぞれの家へ急ぐ。明日みんなに何て切り出そうか。こういうの普段は栄口の役目だろ、性に合わねェよなあ。盛大なあくびをしてから自転車をこぐ足を速めた。