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待ち焦がれて春:志賀剛司
「一つ。監督官の合図と同時に始め、チャイムの鳴り始めと同時に終了すること」
県下一斉公立高校の入試の1時間目が、今年もまた始まろうとしている。
「一つ。早めに終了した場合でも……」
各教室の責任監督者はそれぞれが長々と注意事項を読み上げ、まだあどけなさの残る神妙な面持ちをした中学3年生はその口から発せられる開始の合図を今か今かと待っている。
「では、始めてください」
そのたった一言で、教室のあちことからは一斉にカリカリという音が聞こえ始める。
(さて、今年は……)
教室の中を歩き回っては生徒の解答用紙を覗き込み、監視ついでに答えを考える。
今日は選抜試験で明日は採点業務。県からの採点基準は示されているものの、細かい学校基準を設けるためにも問題は自分なりに解いておいた方がいい。
問題に集中していたのか、ふと気づくと窓際には手を挙げた生徒が一人。
思考を中断して近づけば、まぶしいのでカーテンを閉めて欲しいとのこと。窓側のすべてのカーテンを閉めてしまうと、さっきまでの柔らかな光が懐かしい。
(今日はずいぶん暖かい)
暦の上ではすでに春を迎えてはいるが、現実にはまだまだ寒い日が続く。それでもようやくキャッチボールができる季節にもなり、先日の練習では久しぶりの硬い感触におおはしゃぎする部員の姿を目にしたばかりだ。
春はもうすぐそこまで来ている。
教室の後ろに控えたもう一人の試験監督はすでにこらえ切れないのか大きなあくびをしている。問題用紙で隠してはいるがバレバレだ。 期せずして伝染したのか思わずあくびをしそうになるが、さすがに受験生に悪いのでかみ殺す。
(今年の問題はそう難しくなさそうだ)
入試の試験監督も採点も、基本的にはその学校の教員が各科目を手分けして行っている。毎学期行われる中間・期末考査とは一味違って終始緊張感の漂う高校入試の試験監督も採点も、何度か経験してしまえば目新しいことは何もない。一通り問題に目を通してしまえば、後はひたすら時間が過ぎていくのを待つだけだ。
それでも時折の机間巡視は忘れない。そのついでに、気になる生徒の様子も手元の名表に書き込む。落ち着きのない生徒はいないか。気分の悪そうな生徒はいないか。ほんの些細な仕草も、そのすべてが試験の対象となる。
(409番始終キョロキョロする。落ち着きなし。と)
それでもそんな生徒は多くはいない。またすぐにすることもなくなって、再び退屈なときが始まる。
することもなしに教室を眺めると、廊下側に座った一人の男子生徒に目が留まる。別段、その生徒がおかしな動作をしていたのではない。他の生徒同様、一生懸命に問題を解いているだけだ。
(坊主頭か。野球部だな)
彼は野球を志して今この試験を受けているのだろうか。
西浦野球部は夏の大会でも前年の優勝校を破るという快挙を成し遂げた。新設一年目ながらその知名度はすでに高い。近隣の中学校からの希望者がいてもなんら不思議はないし、すでに数人の入部希望者もいると聞く。
たった10人では層が薄いと言われても反論のしようがない。西浦が次の夏も勝ち残っていくためには、層の薄さを解消しなければどうにもならない。入試の段階で希望者がいるのは、幸先のいいスタートになるかもしれない。
(そう、去年のこの時期にはまだ誰もいなかった)
まだ年若い女性監督とたった二人で始めたこの部活。
ふとしたこんな瞬間に昔のことを思い出すのは、年を重ねたせいなのだろうか。思い出されるのはちょうど一年前の、高校入試の日。
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(目の前の大柄少年は、多分……)
監督業務に専念すべきなのは重々わかってはいるが、どうしても目がその大柄な少年から離れていかない。他の生徒に目をやっても、またすぐにその少年に目が戻るのは、きっと彼が坊主頭をしているからだろう。
一応中学校から志願書と共に提出された調査書にも目を通してはいた。軟式とはいえ野球部に所属している者が数名いることも、もちろん把握済みだ。しかし、はたして新設されたばかりの硬式野球部にいったい何人の生徒が興味を持ってくれるかどうかは、全く予想がつかない。高校生ともなれば、新しい世界へ飛び込んでいくには良いチャンスだ。誘惑だって多いはず。
(野球部所属だろう。有望だな)
野球部の顧問を務める身とはいえ、そう野球には明るくない。それでも中学の野球部が坊主頭を推奨していることくらいは知っている。
この目の前の坊主頭の少年が野球部員である可能性は非常に高かった。
(ふむ、がっしりしてるな。肩も丈夫そうだ。キャッチャーでもやってそうだ)
最近はキャッチャーだからといって大柄とは限らないらしいが、当時の浅い知識ではそんなこと知るはずもない。
ただ、この目の前の少年が野球部員として入部してくれるのを願うのみ。
野球部の顧問を引き受けたのだって、部の発足当時にたまたま手が空いていたからに他ならない。西浦の卒業生である監督候補を手伝って高野連へ申請する文書を作成していたが、それがそのまま顧問への道を順調に歩むことにつながってしまっただけのことである。身もフタもないが、そうでなければ野球の経験もない人間がわざわざ顧問を引き受けるはずはなかった。
それでも西浦に来る前の勤務校で野球部の応援に参加したこともあったので、学校にとって硬式野球部がどのような意味を持つかは十分に承知しているつもりだ。勝ちあがるたびに学校の名はあがり、その評判は次年度の生徒募集に大きく関わってくる。
(野球なんてその程度のものだ)
スポコンはいつでも素晴らしい。それはまごうことなき真実だ。
ただし忘れてはいけないのは、スポコンはスポーツだけに限らないということ。
生徒会でも委員会でも文化部でも、運動部に負けず劣らずのスポコン的な活動をしている団体は多く存在する。教員として、野球部だけを特別視する気はさらさらない。野球に携わる前は、なぜ野球部だけが特別視されるのかがよくわからないとさえ思っていた。むしろ今でもその気持ちは変わらない。
でもそれとは別に、知りたいことも一つある。
(あの監督はなぜあんなにも……)
女監督はどうやら珍しいらしい。彼女がアルバイトで稼いだお金はそっくりそのまま口座に残され、まだ見ぬ(いるかもわからない)野球部員のために使用される日を待っているとも聞く。
(酔狂だとしか言いようがない)
監督を志すのは二十歳過ぎのうら若き女性。オシャレや趣味に費やし、安定した将来のために地道な就職活動をする気はないのだろうか。
以前、あまりの熱の入れように好奇心から聞いてみたこともある。
「野球が大事なんですよ!」
そう笑った彼女はせっせとアルバイトに行ってしまった。彼女にしてみればそれだけで十分と思ったらしいが、残念ながらそんな説明では彼女が野球に入れ込む理由はわからなかった。
来年度からの生活は忙しいものになるだろう。彼女の現在の様子からも、部員を得たら熱心な部活指導をするだろうことは容易に見て取れる。3月の末に異動を申し渡されなければ、きっと公務分掌調査できっと自分は野球部顧問を希望することになる。
彼女の入れ込む理由を知りたい。スポコンはいつでも素晴らしい。しかし一年を通して世間が「野球」に注目しているのにも、やはり何か理由があるはずなのだ。
それを確かめてみるのも悪くはない。青春は高校生だけのものではない。大人になったって一生懸命になれる存在を見つけることができたらそれはなんて幸せなことか。
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高校入試の試験監督だって毎年のことだから、生徒の様子を見ていればその年の生徒の傾向だって簡単に見て取れる。スラスラと鉛筆を走らせる者、肱をついては考え込んで頭を抱える者。いつもなら退屈な試験監督も、可能性のことを考えると非常に楽しい。
(今年はどんな生徒がやってくる?)
毎年毎年、同じことを思って、同じように一年が始まって、そして彼らの卒業を待って一年は終わっていく。それはきっといつまでたっても変わらない、不変の真理。
さあ、春はもうすぐ。
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