待ち焦がれて春:百枝まりあ




 いつもは朝練が終わればバイトに行くから、午前10時という中途半端な時間にグラウンドにいるのは珍しい。
「いい天気!」
 大声を出しても、聞いているのはベンチに繋いだ愛犬だけ。
 冬を越して暖かくなり、やっと野球ができるようになった。貴重な時間に部活ができないのはもったいないが、西浦の弱点である層の薄さを解消するためには今日は大切な日だ。
 在校生が入学式に出席している間は何もすることがない。ビラもプラカードの準備もできている。
 今日はとても暖かいし、天気もいい。空も青く澄んでいる。
 グラウンドの草の上に寝転んでも全く寒くない。
 生徒たちがやってくるまでのほんのひと時の休憩タイム。
(今年はどんな子が入ってくるかしらね)


「やあ、気持ち良さそうだね」
 誰かが近寄ってくる気配がしていたが、目を開けると野球部の専任教師が大きな段ボールを抱えて立っていた。
「志賀センセ。入学式終わったんですか?」
「30分くらい前にね。皆はビラ配りの場所取りに行ったよ。誰かがそのうちビラを取りに来るだろう」
 段ボールの中身は今日だけ特別。保護者会からの差し入れ、ドリンクと菓子が詰まっていた。
 ビラに示してある野球部の活動場所は部室ではなく第2グラウンド。
 自主的にやってくる生徒・部員が捕まえてきた生徒はここでいっぱいの用具とお菓子に出迎えられる手はずになっている。もちろん勧誘が終わったら部員には練習が待っている。
 少しでも冷たいまま飲めるよう、ジュースの行き先はベンチ脇のクーラーボックスと決まっている。その音で目が覚めたか、ベンチに繋いだアイちゃんが小さく鳴いた。基本的に人が大好きな犬なので、繋がれっぱなしが寂しくなったのかもしれない。
「よーしよし」
 志賀がリードを外して腕に抱える。アイちゃんは大きな腕に抱かれて気持ちよさげにすやすやと眠ってしまう。
 去年も似たような光景を見たなと懐かしく思う。くすりと笑みがこぼれる。
「志賀先生は去年の今日もアイちゃんを抱っこしてましたよね」
「そういえばそうだったかな。そうか、もう1年たったのか」
「アラ、どうしたんですか?しんみりしてそんなこと言ってると、今年の1年生にパワー吸い取られますよ」
「これは手厳しいね百枝君。そういえば……」
 志賀は興味深そうにベンチ前を見やるが、そこに目的のものは見つけられなかったようだ。
「今年は甘夏が見当たらないけど?」
(甘夏!)
 これは予想外の質問だ。
「今年は持ってきてません。アレで去年部員たちが萎縮してしまったみたいですし」
「もったいない」
(もったいない?)
「甘夏つぶしとケツバットはいいデモンストレーションになったんじゃないの?」
「それはそうなんですけど……。去年はちょっとテンションあがってましたから。今年は気をつけます」
「それはつまらないね。2年生もきっと期待してると思うよ?」
 何事も最初の掴みが肝心だ。野球部には俗に金剛輪とよばれるお仕置きがあるが、ケツバットは去年の入学式以来一度もしていない。ケツバットや甘夏つぶしに込められていたその意味を生徒はよくわかっているようだ。
「それもそうなんですけど、キャッチャーフライと頭握るくらいでいいかなとも思いまして」


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 甘夏つぶしにキャッチャーフライはともかくとしても、ケツバットはある種の賭けだった。
(何だったっけ、教育基本法とかなんとかそんな法律があったわよね)
 仮にも学校教育に携わる者として、体罰が禁止されていることくらいは知っている。
 ケツバットはどう考えても体罰に当たる。法律の名前も志賀に教えてもらったがすぐに忘れてしまった。
 ケツバットをくらった、ただでさえ気弱そうなピッチャーが保護者に訴えれば、自分はおそらく監督解雇。専任教師である志賀も、体罰を黙認したとして顧問をはずされていた可能性もありえた。
 せっかく集まった10人(しかも中には野球部じゃなくてもいいなんて生徒もいたし)のうち、恐れをなして誰かが辞めていてもおかしくはなかったのだから。
 その危険性をわかっていながらあえてケツバットに及んだのにも理由は一応ある。
(打たれ強い子が欲しかったのよ)
 簡単に辞めていく生徒に用はない。高みを目指すためには、ある程度の打たれ強さは持っていてもらわないとこれからの指導に困る。指導者に恐怖心を抱いてもなお残った生徒にこそ、伸びる部分は残されている。去年はそんな風に考えていた。
 去年志賀がケツバットを黙認してくれたからこそ、その場の雰囲気に飲まれて生徒はおびえながらも付いてきた。あそこで志賀が止めに入っていたら、冷静になった生徒の中には監督に恐れをなしたまま別の部活に行ってしまう者も出てきていただろう。
 西浦は今が伸び盛りの大切な時期。世間からの注目度もそこそこある。
(今年も去年のようにうまく行くとは限らないし。危ない橋はできるだけ避けなくちゃ)
 いい感じに育ってきた野球部から熱心な専任教師を取り上げるわけにはいかない。
「何にしても志賀先生、今年もよろしくお願いします」
 突然の言葉に、志賀は目をぱちくりとさせて頷いた。
「うん、まだまだこれから。やっとここまで来たからね。今年もよろしく」


 硬式野球部を作る。そう志賀と決めて2人で今までやってきた。学校への申請に始まり、高野連への登録や練習場所に部室の確保。書類書類書類の嵐。それもすべて部員が入るかどうかもわからない状態だったから、先の見えない作業は疲れるものだった。あれだけお膳立てしてももしかしたら部員は一人も入らないかもしれなかった。
(それならまた一年待つだけよ。その間にもっとアルバイトできるし)
 誰も入らないかもしれない。そんな不安を抱えながら一年間待った。待ちに待った春休みには幸いなことにシニア経験者を2人確保できた。
 部員ゼロという最悪のシナリオだけは回避できたわけだが、それは同時に新たな不安をもたらした。せめて9人揃わなければ、なかなかの才能を持った2人を活かしてやることもできやしない。期待と不安を抱えて迎えた去年の入学式。
 1人2人と第2グラウンドに集まってきた彼らに、ついつい気が高ぶってケツバットの洗礼を与えてしまったわけだけど。
今なら賭けには勝ったとはっきり言える。
 その賭けに勝って手に入れた11人の生徒はどんな新入生を連れてくるだろうか。
 耳を澄ませばすぐそこにも、にぎやかな声が聞こえてきそうだ。
(今年もまた楽しみだわ!)