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マイナスをプラスに
きっといつまでたっても忘れないだろう5月の夕暮れ。それは部員たちの期待に満ちた目と、監督からの言葉。
「花井君、私も同意見ネ」
別に強制ではなかっただろうから嫌なら断ったって良かったんだ。
中学校時代の自信に後押しされて引き受けたはいいものの、やはり中学と高校では仕事の内容一つ取ってみても大きな違いがあるものだ。少なくとも中学時代の部活では生徒が予算に関わることはなかったし。
学年の違う主将や部長に混じっての話し合いや報告。
いくら軟式時代の記録が多少なりと残っているとはいえ、部としては志賀や百枝と協力しての一からのスタート。学校への提出書類等々、現段階ではすべてにおいて他の部活に遅れてしまっている。
実際頼りにされるのは嬉しいし、1年生だけだからといって他の部活に遠慮しているつもりもない。自分でいうのもなんだが、わりと面倒見の良い方だと思う。
そんな風に自分の性格を把握していても、総勢10名の小さな部活は他よりもまだまだ立場が弱いのだ。たまには主将という立場を重荷に思ってしまうことだってある。部員がそれぞれ協力的なのがせめてもの救いだった。
(そうはいってもなぁ、結構大変なんだよな)
舞台はとある昼休み。阿部は他の組への業務連絡に出かけ、残った水谷と2人で予習と宿題を片付けてしまうことにする。協力体制はばっちりだ。
水谷に数学を任せて英語の予習に手をつける。最近は電子辞書なんて便利なものがあるおかげで、時間が短縮されていい。
はあ〜。
放課後の場所取り会議を思って知らず知らずのうちに漏れる息。おおまかには曜日によって使用可能な場所が決まってはいるものの、自由設定日はどの部活もグラウンドを使いたいから部長たちも必死でやってくる。
(やべっ。またため息ついちまった)
「花井のため息すげーなぁ」
何かあった?隣で教科書とにらめっこしていた水谷が顔をあげる。
「ああ、悪い。気をつける」
「気をつけるって、何を?」
「いや、ため息つかねーように」
「何で?」
「いや、何でって言われても……」
ものすごく不思議な言葉を聞いたかのような水谷の様子に逆にこちらがあせる。
(フツー誰だって嫌なもんじゃないのか?)
ため息はその人間が悩んで困っている証拠。
そう思うからこそなるべくため息はつかないようにしているつもりだ。
もしまわりでため息をつく人間がいたら自分だってどうしたのかと気にしてしまうだろう。
過剰に心配されるのが嫌な時だってあるし、余計な心配をかけてしまったかと思うと気が重くなる。
そしてもう1つ。ため息をつくと幸せが逃げるというし。
ただの思い込みかもしれないけど、幸せが逃げるといわれている行為をするのは何だか癪だ。
だから水谷の言葉には驚いた。
「別にため息ついたっていいんじゃないの?」
(は?)
まじまじとみつめるとまじまじとみつめ返された。
しばしの沈黙に耐え切れなくなって目をそらす。
(なんでオレの方がそらすんだ?)
自分に問いかけてみても答えは見つからない。
これではまるで水谷に負けたみたいだ。討論したわけでもないけどそんな気分になる。
「ため息つかれると嫌じゃないか?」
「オレ別に嫌じゃないけど」
「オレはあんまりなの!だからヤなんだよ」
「じゃあ花井はさ、なんでため息つくの嫌なの?」
「そだな、まわりに心配かけちまったかなって思うとワリィなってのが1番かな」
まわりに気を遣わせてしまうと思うと、ため息をついた後は余計に気分が落ち込んでしまう。
「そしたら吐いた息をもっかい吸えば?飲み込んじゃえばいいじゃん」
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れる。
(吐いた息を吸う?)
それは当たり前のようで思ってもみなかった考え方だった。
「ため息って思うから余計に落ち込むんだよ。深呼吸だと思えば気にもならないだろ?」
「はあ、そりゃまあ」
「深呼吸すると脳に酸素がまわって気持ちがすっきりするってオレ聞いたことあるよ」
「それはオレもあるかも」
「でしょ?ああため息ついちまったって思ったら、吸っちゃいなよ。まわりには深呼吸だって思ってもらえるし花井は酸素のおかげで前向きになれるし」
「………」
「あれ、おかしい?」
「イヤ、全然おかしくねぇ。むしろ確かになって思う」
ため息をついた瞬間に息を吸えるかは疑問だが、やってみる価値はありそうな気がする。
「水谷っておもしろい考え方するんだな」
「え、そうかな」
(だけど水谷の言うことは最もだ。そー考えたらすげー楽になっかも)
「うん。それは悪くないかもしんねぇ」
「でしょ?」
「それにため息つくと幸せ逃げるって言うしな。やっぱため息はできるだけつきたくねぇ」
教科書に戻りかけた水谷の視線が再びこちらを向く。
「何で?」
「いや、何でって言われても……」
もう一度ものすごく不思議な言葉を聞いたかのような水谷の様子に逆にこちらがあせる。
「なぁ花井、オレ思うんだけど」
「何を?」
首を傾げつつじっと見据えられて、少々居心地が悪い。
「人間って楽しいことほどすぐ忘れちゃうだろ?」
「?」
「でも気づかないだけで本当は全部覚えてると思うんだよ」
「??」
「ただそれがたまり過ぎると逆にオレらがパンクしちゃうんだ」
(なんか哲学的な話になってきたぞ?)
「どーいう意味?」
「古い幸せは逃がしてやんなきゃ新しい幸せなんてこないじゃんか」
「!?」
「だから、新しい幸せを呼び込むためには古い幸せは逃がしてやんなきゃってこと」
(新しい幸せを呼び込むために古い幸せを逃がす?)
まさに晴天の霹靂。目からうろこが落ちたともいう。
(そんな考え方ってアリなのか?いいのか、それ?)
「ため息ついたって別にかまわないと思うよ、オレ」
「………」
(コイツ、なんて……!)
少なくとも今まで「ため息ついていいよ」なんてそんな発言をする人間は1人もいなかった。
(ポジティブ?楽観的っていうのか?)
あっけに取られていると、逆に今度は水谷の方が居心地悪そうにしている。
「ねえ花井、オレそんなおかしなこと言った?」
「いや、そんなことはねぇよ」
「ほんとに〜?」
それ以上なんと言っていいかわからず、追求を逃れるために辞書に目を落とす。
(こんな考え方してっから、コイツはコイツなんだ)
春に出会ってからの水谷を思い出す。空気を読んでいるのかいないのかよくわからない発言に振り回されたり助けられたりもした。クラスでも部活でもよくいじられるキャラだ。
(田島や三橋とは違った意味で水谷って大物かも。いや、スゲー自然体なんだ多分)
もしかしたら彼は自分たちと同じ世界を生きていながら違う見方をしているのかもしれない。
(そうだよな。ため息ついたって悪い方にばっか考えなくてもいいんだよな)
人間に幸せを貯めておけるキャパシティなんてものがあるかどうかはわからないが、もし本当にあるのだとしたらため息は新しい幸せが近づいている証拠なのかもしれない。
だからといっておおっぴらにため息をつこうとはこれからも思わないだろうけど、我慢できなくなったら深呼吸をしよう。
たまには水谷を見習うのもいいかもしれない。
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