見えない背中

s i d e 水 谷 文 貴



 たまにだけど、無性に人のことがうらやましくなることがある。
 例えば自分にはできないことができる人間。例えば今、オレは沖がうらやましい。


 沖一利という存在はいつだってさりげない。あまり目立たないように見えて、その存在は偉大だ。練習で疲れているときだって、沖の一言で空気がグッと軽くなる。
「あー疲れた。モモカン厳しくなったな……」
「さすが宣言どおりだな。ヨーシャねー」
「オレ今日の授業大丈夫かな〜。エーゴやばいかも」
「だから集中力を鍛えるチャンスなんだろ」
「わかってっけどよ、たまにはいいたくなるだろ」
「いっつも言ってんじゃん」
「いつもは言ってねーよ!」
「まあまあ、眠たくなったらノート頑張って取るのが一番だよ。なぁ西広?」
「そうそう。先生の言うことを全部書いてみたら?ノートは充実するし、寝なくてすむし一石二鳥」
「けっこう頑張れるからやってみなよ、あとコレ」
 3組コンビは事も無げに言ってのけ、沖はポケットから何かを取り出した。
「何コレ?」
「眠気覚ましのタブレット。けっこう効くから」
「くれんの?助かる。もらっとくよ」
「皆もいる?」
「オレもほしー」
「オレも!」
 野球部には気遣い屋も多いから、本気でケンカになることはめったにない。この場面でも、
「まあまあ皆疲れてるんだし、そんなイライラすんなって」
 と割って入る人間はきっといる。
 でも沖はそうしない。直接人を諌めることはせずに、そっと話題をずらしてしまう。それがとても沖らしくてさりげない。
 沖が本当はピッチャーをやりたがっていないことくらい、誰もが知っている。決して「やりたくない」なんて沖自身が言ったわけではないけれど、それくらいは何となくわかる。三橋のため、人数の少ないチームのことをいつも考えている沖を、スゴイと思う。
 さりげなく思いやりを示すことのできる沖がうらやましい。自分にはできないからバカ言って笑わせることしかできない。
 西浦野球部には、沖の存在はとても大きい。たった一言でいらだちかけた空気をどこかへやってしまう。そんな風になれたらと思うけど、なかなか難しい。


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 今日こそ負けられない。
 最近野球部で流行っているシールゲームは、いつまでたっても沖に勝てないまま三日目を迎えた。
 いたってシンプルなゲームなのに、いつもいいところで負けてしまう。
 このまま負けっぱなしでは男が廃る。
「沖、背中につけられてンぞ」
 細心の注意を払って沖の背中に貼り付けたシールは、あっさりとチームメイトによって教えられてしまった。
「え、うわホントだ。ありがと!」
「あああちょっと、言っちゃったら意味が無いじゃんか!」
「はい水谷、もっかい頑張って」
 沖は背中に手を回してシールをはがすと、笑いながらオレのシャツに貼り返してきた。
 一生懸命貼ったシールをあっさりフイにされるのはつまらないし、正直またかと思う。
「なんで皆沖にはゆーワケ?オレにシールがついてても言ってもくれなかったクセに」
 これではまるで9対1の勝負のようだ。ぶちぶちとこぼすと、泉と阿部が反応してくれた。
「それは、なあ?」
「うん、そりゃは仕方ねーよ水谷」
 二人は顔を見合わせてなにやら頷いている。
「だって沖とオマエだもんな」
「あーもー、全っ然意味わかんねー」
 プチンと何かが切れた気がする。ああそうだ。言ってやれオレ!
「皆オレに対する扱いヒドクない?」
「………」
「………」
「おまっ、今頃気づいたのかよ!?」
「前から思ってたよ!でも言わなかったんだよ!」
 オレは怒っているというのに、部室は笑い声に満ちている。西広や三橋まで笑っている。栄口なんて涙まで流して笑っている。
 おかしいおかしい。ここで笑いが起こる理由が見当たらない。
「沖もなんとか言えよ、オレらのオトコの勝負に口出すなって」
 唯一笑っていなかった沖に助けを求めてみれば、ついには沖まで笑い始めた。
「水谷ー」
 呼ばれて振り返れば、扉の所で1組の二人が笑っている。
「頑張れ水谷、応援だけはしてっからさ」
「そうそう、どっちも応援してるから」
「……そりゃどーも」
 応援する気持ちがあるのなら行動で示して欲しいと思う。
「う〜ん、仕方ないよ水谷」
 沖はまだ笑いながらも、先ほどの答えを返してくれるようだ。
「なんで?」
「だって勝負してんのがオレと水谷だしさ!」
「沖までそう言うのかよ!そんなの理由になってないし!」
 笑い声は部室の隅々にまで広がって、もう止めようがない。
 この物悲しい気分をどうしてくれよう。一人で怒っているのがバカみたいだ。
「まあまあ水谷、コレあげるからさ。元気出してよ」
 沖がカバンから取り出したのはミルクチョコレートだった。
 この状況の根本的な解決にはなっていない。でも怒りの矛先は少しずれる。
 多少釈然としないものはあるけどミルクチョコレートは好きだ。それは間違いない。
「ああもう!」
 大きな声で叫ぶ。もう、一緒に笑ってしまえ。
「次は負けないからな、沖!」
「望むところ。いつでも受けて立つから」