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夏の暑さは陽炎のように
「じゃーな阿部、時間できたら遊びに行こうぜ」
去り際にクラスメートにそんな風に声をかけられて「いつかな」なんて答えながらも、その誘いを蹴ることを少しだけ惜しく思った。
(時間なんてできねーだろうな)
これから彼らは連れ立って最近発売されたCDの新譜を買いに行くのだという。合宿中だとわかっていながらも一緒にどうかと誘ってくれたことはありがたかったが、さすがにその誘いに乗るわけにもいかない。
学期明け行事のための話し合いだったが、野球部が全員それに参加しないのもどうかということで、代表で参加してきた。時間にして約一時間だったから、今の自分にしてみればどうという時間でもない。
「部活頑張れよー」
「千代たちにヨロシク言っといてねー」
「おー」
昇降口で別れ、一人グラウンドを目指す。
今まで誘いを断ることを残念だと感じたことはなかった。今回に限ってそんな風に感じたのは、きっとクラスの話し合いが思っていた以上に楽しかったからだろう。
「遊びに、ねェ」
昼まで寝て、起きたら適当に映画を観て、その後はボーリングとカラオケでお決まりのコース。夜は誰かの家に集まって徹夜でゲーム大会。そして「夏休みだから」なんて理由で、同じ生活を一週間続けてみる。
ごく普通の高校生の夏休みだ。一日の半分くらいは部活をして、残りはずっと遊んで、勉強はごくたまにでいい。
そんなことを考えていたらいつの間にかグラウンドに着いていた。
「お帰り阿部。話し合いお疲れ様」
「すんません、今戻りました」
暦の上ではもう秋を迎えているが、太陽はまだまだ高い。
フェンスをくぐるのと、ランニングから帰ってきた集団が走りこんでくるのとほぼ同時だった。
汗をダラダラと流してへたり込む姿を見て、また少しばかりモヤモヤしたものを感じる。
それはきっと暗い羨望の気持ち。
入っていけない、混ざれない。ああ、榛名もこんな感じだったんだろうか。
「あーべ、ちょっとこっち」
志賀に呼ばれてベンチに座る。昼からの個人メニューを受け取って目を通す。
「あれ?」
「イヤ、何もないっすよ」
そんなに顔に出ていただろうか。不思議そうに顔を見られて、一応否定はしてみる。でも志賀のことだからきっとお見通しなんだろう。
思い当たることがあるのか「これは僕の経験だけど」と前置きして志賀は続ける。
「経験は多い方が望ましい」
(………?)
何が言いたいのかよくわからなくて、志賀の顔を見上げる。
「……何の経験すか」
「何でもだよ!」
お決まりのニカッという笑顔だったが、なぜか胡散臭く感じられて仕方ない。
「良いことも、悪いこともそれなりに」
例えば君の膝とかね。
志賀が続けた言葉にとっさに生まれたのは反発心。
「……ケガのどこがいいんすか」
作ってきた体は動かさなければすぐに鈍る。鍛え上げた筋肉が落ちていく感覚は想像以上におぞましいものだった。
だからこそプロは一日たりとも練習を休まない。一日休めば勘を取り戻すのに三日必要なのがわかっているから。
同じ一週間を過ごしているのに、周りの人間は伸びて一人だけその場に取り残される。それだけならまだいいが、一人だけ後ろを向いて逆方向へ向かっているんじゃないか。そんな風にさえ思えてくる。
言葉は思わずトゲを含んだが、志賀はまったく動じなかった。
「でもわかることもあるだろう?」
「………」
「時間はまだある。今のうちに考えておくといいよ」
言葉が出ない姿を見て、志賀はベンチを立った。
(……んなん言われてもなぁ)
ケガをしてわかったことといえば、「やはりケガはしない方が良い」ということぐらい。
あの口ぶりから察するに、おそらく志賀はその答えを知っている。けれどそれを簡単に教えてくれる気はないらしい。
「そんなんでわかるかよ」
一つため息をついてバックネット裏に目をやれば、三橋と田島が組んでキャッチボールを始めたところだった。花井は沖と組んでいる。
ちょうど逆光になっているせいだろう。とても眩しい。
見ていてもどうしようもないことはわかっている。ストレッチから始めることにしてベンチを立つ。
「あべー、スプレー!」
視線をやれば、グラウンドから西広が走ってきた。
「どこやったんだ?」
「腹!」
西広は練習着とアンダーをめくって腹を出す。腕や顔に比べたら白い腹。
「腹かよ」
「ボールの下に滑り込んだらさー、角度失敗した」
「あんま腹にはスプレーしねー方がいいんだけどな」
「そうなの?」
「おう、確か」
腹を冷やすのは良くないので、少し吹きかけるだけに留める。
「もー息止まるかと思ったよ。最後の一球だったから良かったけど」
痛そうに腹をさすってみせるが、その顔は笑っていた。
体の痛みなんて気にならないといった風に見て取れる。
「モモカンもギリギリのとこにノックしたんだろ」
「そうそう、でもグラブの端っこにちゃんと引っかかってた!」
嬉しそうに笑う西広に、良かったなと思う。
(でも、アセっちまうの抑えられねェ)
考えない振りをしてみても、じりじりと体を包む焦燥感は消せない。くたくたになるまでトレーニングして、何も考えられないくらいに疲れ果てて眠れたらいいのに。
ケガをしたことについては後悔の気持ちもあるけど、
(……でもそれ以外にどうこう思うつもりはねーんだよ)
夏の暑いグラウンドで、熱射病も打ち身も少しも恐くはない。
冬の寒いグラウンドで、霜焼けも擦り傷も少しも恐ろしくない。
毎日毎日寝て起きたら野球ができることが楽しくて、それが当然だった。
丁寧に磨いたグラブはもはや分身と呼べるかもしれないし、共に汗を流す9人は友人とよりは仲間と表現した方が正しいかもしれない。
何より、空高く上がったフライを追って追って捕ったときの気持ちよさを知っている。
勝利を手にした瞬間の嬉しさも負けた瞬間の悔しさも知っているから、もう知らなかった頃には戻れない。
「ならオレバッティングの方に行くよ。サンキュー阿部」
「おお、頑張れよ」
「阿部もな。でもゆっくりやれよ」
「わかってる」
野球ができなくてつまらないから、普通の高校生をうらやましく思うんだろう。
松葉杖がなくてももう動けるようになったし、これから少しずつ負荷をかけたトレーニングをしていく予定だ。
野球部に入ったこと、後悔していない。後悔するくらいなら、そもそも入学前の春休みからグラウンド整備なんてしたりしない。
食っちゃ寝して体は大きくなった。膝は順調に回復している。
それでも答えはまだ見つからない。
「阿部君がグルグルしてるみたいですけど、志賀先生何か言われました?」
「ああ、人生のアドバイスを少しね」
なるほどと若い監督は笑った。
阿部にとっては今が一番苦しいときだろう。焦りも不安もあるだろう。
だがハンデを乗り越えたとき、人間は成長する。それは体の問題ではなく心のことだ。
(君もね……)
手のかかる弟たちを優しく見る目つきをしているが、隣に立つこの若い監督自身がいまだ過去にとらわれていることを志賀は知っていた。
彼女が高校を卒業してもう数年たつというのに、まだその傷は癒えないのだろうか。
彼女も早く抜け出せたら良いと思う。
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