江戸は大きな大きな町である。
 大きな町であればあるほど、人も物も大きく動く。火事も多い。
 加えて全国からは、金と荷を狙って盗賊も集う。それが江戸という町である。


 盗賊がもっとも現れやすい、新月の晩。
 新月にしか現れない一匹狼を捕まえるため、役人は町の至る所に網を張っていた。
 北町の若手同心である幸村も例に漏れず、見回りという役目を仰せつかっている。
「奴は今夜も必ず現れるはずだ。気を散じるなよ!」
「へえ、わかっておりやすよ」
 幸村が連れている岡っ引きは親の代から十手を預かる手練れで、駆け出しの幸村にとっては何よりも頼もしい。
「今夜こそは逃がさぬ。これ以上野放しにはしておけぬからな」
 すでに四度、奉行所はその盗人を逃している。
 盗人の評判をあげるか、奉行所の信頼を回復できるかは今夜にかかっているといっても過言ではない。
「それもこれも、あの盗人が銭ばら撒いてご機嫌とってやがるのがいけねえんですぜ」
「だが某とてそやつの気持ちが理解できないわけではないのだ。お前達もそうだろう」
「そりゃあそうですが…」
 盗賊には盗賊の掟がある。
 犯さず、殺さず、そして盗まれて難儀する者には手を出さず
 急ぎ働きの非道な盗みが増えている江戸で、掟を守る殊勝な盗賊の人気が出ないはずはない。
 そして何よりも、その盗人が持ち出した金の大半を貧乏長屋に投げ込んで歩くことも人気が出る理由の一つである。
 ここ数年は作物の不作により、米の値は上がる一方。江戸は大きな町ではあるが、貧富の差も大きい。
 決して裕福とはいえない同心の幸村にも、なぜその盗人に人気がでるのかがよくわかる。だからこそ本心では、その盗人を捕まえたくはなかった。
「だがどんな盗賊だとて盗みは盗みだ。我らはお役目を果たさねばならん」
「へえ、その通りで」


 大店の立ち並ぶ界隈に差し掛かり、幸村は足を止めた。
「おや旦那、どうかしやしたか」
 急に足を止めた幸村をいぶかしみ、先を歩いていた岡っ引きが振り返った。
「何かいる」
 奉行所に勤めだしてまだ日は浅いものの、幸村の勘はすでに広く知られている。ここぞというときの思い切りの良さもなかなかの評判だ。
 その一言に、下っ引きが呼子を咥えた。
「いや、某の思い過ごしかもしれぬ。だが念のためだ。この周囲を見てきてくれ」
 そう指示しながらも、幸村はここらの店のどれかに、すでに盗人が入り込んだのだと確信していた。肌に感じる空気が違うのだ。
 だが今までの盗みが全てそうだったように、見てわかる程度の異常など何もないだろうこともわかっていた。
 厳重に警備されていた蔵にさえやすやすと入り込み盗みを働く。家人が朝になって蔵を開け、ようやく盗みに入られたことに気づくという始末なのだ。
「………。」

 提灯の灯りがなければ数歩先すらも見えないのが新月の夜。手にしていた提灯を軒下に差し、道端の石を手に取る。
 闇が一層深くなった部分目掛け、当て推量で石を投げる。運悪く人に当たれば骨くらいは折れるかもしれないし、そこに壁があれば穴くらいは開くかもしれない。そういう勢いで投げた。
「よくここにいるってわかったね」
 石は闇に吸い込まれ、代わりに声が返ってくる。
 声に続いて千両箱を抱えた男が一人、灯りの届く位置に姿を現した。
「まずはその金、置いてもらおう」
「で、俺を捕まえるって?」
「お主を捕まえるのは正直なところ気がすすまぬ。だがこうして出会ってしまった以上は見逃すこともできぬ」
 辺りを見にやらせた手下も、呼べば戻ってくる距離にいるはずだ。重い千両箱を抱えて逃げられはしない。
「どうしてここにいるってわかったんだい、真田の旦那?」
「なぜ某の名を知っておるのだ」
「質問に質問で返すなよ。まぁいいけど。そりゃあ俺を捕まえようとする同心の顔くらいは把握しとくもんさ。御用聞きのおやじさん方も何人かはね」
 やはりこの男は用心深い。こちらの内情をしっかり探った上での盗み働きをしているようだ。
 毎度毎度この包囲網を切り抜けていることを考えると、奉行所内に情報を流している者がいることも考えられる。
「丸腰の俺に切りかかりはしないだろう、真田の旦那」
「む、ではお主、何も得物を持っておらんのか」
 千両箱を降ろした男の手には、確かに何も握られていない。丸腰の相手に切りかかるのは本意ではないが、かといって逃がしてしまっては意味がない。
 同心は生け捕りを基本とする。幸村は刀ではなく十手を構えた。
「得物なんてそんなもん、持ってたって使いやしないよ。俺様は平和主義者なんでね」
 言うなり男は何かを投げた。とっさに顔を庇った幸村の左腕に紐が絡みつく。
 それは男の幸村にはとんと縁がなさそうな、女物の色鮮やかな組紐のように思われた。
「あれ、首狙ったんだけど」
 おっかしいなぁと首を傾げるこの男は、軽薄な口調とは裏腹にひどく冷めた目をしている。
「さっきの石といい…。そうか、アンタだね、えらく勘の鋭い同心ってのは」
 男が紐をぎりぎりと締め上げるので、幸村は引き摺られないようにするだけで精一杯だ。紐を切るには刀を抜かなければならないが、あいにく幸村は右手に十手を持ち、左手は自由を奪われている。かといって刀を抜くために十手を手放せば、必ず隙が生まれてしまうだろう。
 男の話術にまんまとはめられたことを知り、どうしたものかと眼前の光景から注意がそれた。その瞬間を狙い済ましたかのように、さらに勢いよく何かが飛んできた。
「石……?」
 かろうじて十手に弾かれて地面に落ちたそれは、指の先ほどの小石だった。飛んできた方向から考えても、男が指で弾いたとしか考えられない。
「なんという技か……」
 幸村も幼い頃に似たようなことをして遊んだことはあるが、石を指で飛ばしてもこれほどの威力を伴ったことは一度もない。恐るべきは男の技量。
 感心と同時に、怒りにも似た気持ちがと沸き起こってくる。
「平和主義とはよく言ったものだ。この紐といいそのつぶてといい、切れぬだけで立派な得物に相違あるまい」
「それでも平和主義には違いないだろ。アンタが俺を見つけなきゃ、こうして使うことはなかったんだから」
 呼べば誰かが駆けつけることはわかっていた。しかし誰が加勢に来ても、つぶてにやられることは目に見えている。
「お主、なぜ盗みを働くのだ。見たところお主はまだ若い」
 千両箱というものは、たとえ一箱でもとても重い。それを軽がると担いでいたのだから、痩せているように見えてもそれなりの力はあるのだろう。
「盗みなど今宵限りでやめ、真っ当に働いて生きていくが良い」
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
 紐を間に挟んだまま、男と幸村は睨み合った。
「貧乏人が全財産投げ打ったって何もできねえ。でも金持ちが小遣い出すだけでできることはいくらでもあるんだぜ」
「そ、それはそうかもしれぬが……。ではお主はその金で何がしたいのだ」
「そんなのアンタには関係のない話だ。口出すんじゃねえよ」
「どんな理由があるにせよ、人様の物を盗ってよいという理由にはならんぞ」
「だから、んなことアンタに言われなくてもわかってるって!」


 そんなやり取りを続けていると、近づいてくる足音が聞こえた。連れていた岡っ引きが戻ってきたか、別の見回りがやってきたのかもしれない。
「ああもうアンタのせいで時間がかかり過ぎだ。仕方ない、今夜はあきらめてやるよ」
 どういう仕組みか、その言葉と共にするりと紐が幸村の腕から外れた。
 男は降ろしていた千両箱をもう一度抱えると今度は勢いよく地面へ叩きつけ、足音がやって来るのとは反対の方向へ身を翻した。
 箱からは小判があふれて散らばり、幸村はこれだけの小判を放り出して追いかけるわけにもいかずに遠ざかる背を見やる。
「待て、お主名はなんと申す」
「盗人に名前聞く方がどうかしてるよ。じゃあまたな真田の旦那」
 よほど夜目がきくのだろう。提灯もなしに闇夜を駆け、男はあっという間に姿を消してしまった。
 入れ替わるように戻ってきた手下の岡っ引きが、散らばった大量の小判を見て目を白黒させていた。
「これが一枚あるだけで、あっしら一年は暮らしていけますがね」
 大店から心付をもらっている身とすれば、盗まれた金はそのまま店に返すしかない。
「旦那、お怪我は」
「いや、大事無い」
 左腕の赤い痕を無意識にさすりながら、配備を知らせる呼子の音をぼんやりと聞いていた。

 あの男なら今夜もきっと逃げおおせる。
 だが次の新月の夜には、またどこかで鉢合わせるに違いない。そんな確信を抱いていた。
「次こそは、必ず」



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