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パニックパラダイス
それは一日中強い風が吹き荒れたある日の練習帰りのこと。
オレたちは、かつて一度だけ聞いたことがある(もう二度と聞くことはないだろうと思っていた)あの声を聞いた。
「泉ィ、紐」
「お、サンキュ」
ほどけていたスニーカーの紐を結ぼうとしゃがみこんだその瞬間だった。
「ふげえっ」
何事かと顔をあげたら、その声の主は巣山だった。目の前にあった巣山の手が震えている。
その声(それを声といってよいかも疑問だが)は奇声と呼ぶにふさわしく、あえて言葉として表現するなら「ふげえっ」しかないだろう。そんな声だった。
「おう巣山、どーしたよ」
「けったいな声出しやがって」
「………」
巣山はある一点を見つめたまま動かない。
「おっ、オレの……!」
「オレの?」
「おっ、オレの愛車が……」
「……愛車?」
巣山は質問には答えず駆け出し、一目散に走った。
フェンス際に揃えて停めていた部員の自転車がそろって倒れている。今日は風が強かったせいだろう。
「あー、チャリ倒れちゃってんな」
「げ、起こすのだりー」
将棋倒しよろしく自転車の雪崩が起きていた。
誰しもが経験あるだろう。自転車が雪崩た場合、端っこから順に起こしていかなければ、途中の自転車を救出することはできない。頑張って引き起こしてみると、オレのチャリはカゴがおかしな形になっていた。
「カゴが曲がった」
「オ、オレのも……」
「サドルナナメってるし。勘弁しろよなぁ」
「ど、どーしよ……。オレどうしたら!」
列の中ほどに停めてあった自転車を抱え起こして巣山がおろおろと焦っていた。
「巣山どーした?」
「ハンドルが……!」
「?ハンドル?」
「ハンドルがこすれた!」
「ハァ?」
巣山の自転車はスポーティなマウンテンバイクタイプだからカゴはない。
スポーツバッグはどうせ肩掛けだから、カゴがなくても支障はない。
自転車というものは倒れるたびにあちこち傷が付くのが当たり前だ。カゴが歪むのはもちろんのこと、倒れた衝撃でサドルがありえない方向を向いていることもある。同じ方向に何度も倒れた場合、癖がついてチャリ止め(正式名称は知らないが)がおかしくなってしまうことだってあるのだ。
だがしかし。
だがしかしだ。
「ハンドル……」
たかがハンドルがこすれたくらいでなんだと思う。歪んでしまったカゴを元に戻す労力に比べればなんてことはないはずだ。
「まーいいじゃんハンドルこすれたくらい」
カゴが曲がるより目立たねーよ、と軽い気持ちで発言したのがいけなかった。
「ハンドルくらいぃぃぃ?」
振り返った巣山の目がギロリと光る。
「こいつはなぁ!」
「こ、ここコイツは、何だ?」
普段見ない巣山の剣幕に、さすがにオレもビビッた。
「こいつはオレが金貯めて親に頼み込んで……」
ガシッ。
「選びに選んで手に入れたヤツなんだよ!」
「オイ落ち着け巣山!」
巣山が今にもオレに掴みかかろうとしているように見えたのか、しばし呆然と巣山を見ていた花井や西広が慌てて巣山の手と肩を押さえる。
「いつもチェーンかけて絶対倒れないように気をつけて……」
「そ、そーか。今日はチェーン忘れちまったのか。そんな日もあるって気にす……」
「あ、バカ……!」
激昂した巣山をなだめようとしたんだろう、花井が不用意な発言をした。
それほどまでに大事にしていた自転車のチェーンを、今日のように風の強い日に巣山が忘れるとは思えない。火に油を注ぐだけだ。
「違う、ちゃんとかけてた!」
「そ、そっか、かけてたのか?」
「かけてたのに……」
「今日、風強かったもんなぁ?」
「風が強くて……」
「倒れちまったんだよな!」
「倒れた……」
現実を思い出してきたのか巣山は少しずつ落ち着いてきた。否、落ち着いたというよりも、落ち込んだという方が正しい。
「元気出せよ巣山!」
「そうだよ元気出せよ。そーだ、チャリ屋行ってみたら?」
「直してもらえっかもしれねーよな?」
キラリ。
その瞬間、巣山の顔が生気を取り戻した。
「じゃ、オレ先にかえっから!」
軽く手をあげて挨拶すると、巣山は愛車に乗ってそそくさと帰って行った。
「巣山、今からチャリ屋か……」
「じゃねーの」
「………」
「………」
誰かがため息をついた。
「オレらも帰るか」
「おう」
「……こだわりってスゲー」
呆然とつぶやいた声が風に乗って消える。
「でもあの巣山の慌てっぷりは懐かしいものがあったな」
まO゛いプロテインに巣山が怯えていたのはもう半年も前の話だ。普段冷静な巣山があれほどまでの反応を示すプロテイン。田島や阿部もが食いたくないと拒んだプロテイン。
まO゛いプロテインを免れた他の人間が興味津々に食べてみることもあったが、そんな中でも巣山は決して口にしようとはしなかった。食べさせようとすると行動がおかしくなる巣山がおもしろくて、寄ってたかって食べさせようとしたこともあった。
全員が普通のプロテインになってから、巣山が動じる姿なんてついぞお目にかかれなくなってしまったけど。
誰かが笑い出すと、その笑いは次第に全員に伝染していく。
「自転車絡むと巣山オモロイな」
「当分はこれでいくか」
「いいかもな」
その夜巣山から全員へ向けて一斉送信の写メが来た。
巣山はそんなにマメな男ではないけれど、今夜ばかりは何かしらの連絡が来そうな気がしていた。そして巣山は予想を違えない男だった。
『直ったぞ』
たった一言の簡潔なメールと共に、満面の笑みを浮かべた巣山と愛車の写真が付いていた。
今日の巣山を思い出すと、やはり泣けてくるほどおかしい。
今は笑っている巣山も、多分明日皆にいじり倒されるんだろうと思うと、気の毒でも有りそれがおかしくも有り。
明日も楽しみすぎる。
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