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Ready ?
まるで、雲を突き抜けたような気がした。
急激に浮上したのか、それとも落下したのかわからない。ともかく意識は雲を突き抜け青空の中に飛び出して、そうして阿部はパチリと目を開けた。
腕がほとんど無意識のうちに、毎朝の習慣通りに動いて頭の上の方に置いてある携帯を探す。高校に入ってからは、目覚まし時計に使っているのはもっぱら携帯のアラームだ。耳障りな電子音が最初の一音を鳴らせたのと同時に、阿部の手がそれを探し当てた。適当に指が触れたボタンを押してアラームを止める。
(なんか夢、見てた、か…?)
バンジージャンプで突き落とされたような。もしくはその反動で跳ね上がったような。いや、突き落とされたっつうのはナシだな。今日は試合だっていうのに朝っぱらから縁起悪ィ。
どっちにしろ、目覚めがやたらと良かったことには変わりない。アラームは普段から余裕を見て設定してあるのでしばらくこのまま眠りの余韻を楽しむこともできたけれど、阿部は寝転がった状態で思いっきり伸びをすると、ベッドには少しの未練も見せずに起き上がった。
勢いよくカーテンを開けてまだ少しひんやりとした空気を確かめる。それでも直接当たる光は充分に暖かくて、今日一日の天気の良さを存分に保証するようだ。見上げた空はどこまでも青い。
今日も、暑くなりそうだ。
今日の対戦相手は決して強豪ではないけれど、固い守備が印象に残るなかなかいいチームだ。打撃が強いわけではない分、今までの得点は相手のミスから得たチャンスを無駄にしない攻撃でもぎ取ってきている。それならば、とりあえずこちらは守備でミスをしなければいい。バッテリーはテンポが速い割りに丁寧な投球をするけれど、ウチのやつらならあれくらいは打ちごろの範囲だろ。
配球は? 問題ない。ばっちり研究し尽くしてやった。一番はバントよりも振っていくタイプで、外角高めに良く手を出してた。二番は左。そのせいかバントが多い。ってことはまっすぐを使うのには注意が必要。一番が出塁して二番で送るっていうのはウチと同じパターンだ。まあそんなのは高校野球じゃ鉄板中の鉄板だけど。けど、向こうのは防いでオレらはその戦術で点を取る。同じ方法取って相手だけ成功したら結構落ちるしな。
光を浴びてすっかり冴えた頭でそんなことを考えながら、パジャマにしていたTシャツを脱ぎ捨てる。ベッドの上にそれを放ったところで、阿部は小さく息をついた。
(……オレも三橋のこと言えねェな)
試合当日とはいえ、起きた途端に頭の中は野球で一杯になる。配球と、戦術と。三橋がいつでも、どれだけでも投げたがるのとちっとも変わらない。
オレと三橋と、どっちが自分のポジションに対する執着が強いか。そんなの考えるまでもない。どっちもどっち、だ。唯一チームメイトと向き合う守備位置。グラウンドでの司令塔。そして投手の、三橋の球を捕れる場所。一体そこを、誰に譲れるっていうんだろう?
阿部は携帯を手に取ると昨日届いたメールの画面を開けた。短い文面に向かって呟く。
「ったりめーだっつの」
きっと今日もいいピッチングが出来る。試合にも勝つ、当然。
チームメイトたちは、もう起きただろうか。
いつもは家族に声を掛けてもらうのに、試合の日だけは一人で勝手に目が覚める。それは小学生のころからずっとだ。
田島は今朝も朝六時より十分前には目を開けて、顔だけ洗って家を飛び出した。朝のうちに軽く走る習慣もずっと続いている。前は飼っている犬と一緒に走っていたけど、最近は飽きてしまったのか歳をとったのか、「行くかー?」とリードを目の前で振ってもふいっと目を逸らされてしまう。どうやら散歩はのんびりしたいらしい。今日もあっさりと振られてしまったので、田島は今、ポケットに突っ込んだ携帯だけをお供に一人で走っている。
早く打ちたい、バッターボックスに立ちたい。本気のボールと対峙したい。思いっきり投げられたボールを、自分の力で走らせたい! そうやって自分の中で振り切れそうなくらいに上がるテンションを、走ることによってできるだけ平らかにする。宥めるわけじゃない、腹の底にぎゅうっと溜め込むのだ。けれど走っている間は、どうしてもその日の試合相手のことばかりを考えてしまう。
投手の決め球はなんだったか。今日の対戦相手ならカーブ。ピッチングの傾向は? ぽんぽんと投げて打たせるタイプ。遊び球は少なそう。守備は堅かったから、チャンスを確実にものにしなきゃならない。
阿部が言うには、今日は特に一番からの攻撃で点を入れることが大切らしい。田島はどの打席だって塁上にいるランナーを還すことが四番としての務めだと思っているけれど、阿部は相手の常套手段で得点することで焦りを誘うんだ、とものすごくイヤな感じの笑顔で言っていた。泉が出塁して栄口が送って、巣山でまた進めてオレが打って得点。
オレが塁に残ってたら、きっと花井が還してくれる。
夏とはいえ、早朝の気温はまだ低い。うっすらと白いもやがかかった景色をどんどん後ろへ流しながら、田島は弾んだ足音を残して見慣れた道を走って行く。なんだか今日は気持ちがいい。この時間でそう思うのだから、試合開始のころには相当気温は上がっているだろう。
(あっつくなりそうだー…)
見上げた空は、まだ少し白っぽいけれど雲ひとつない青空。ふと思いついて、田島はそれを携帯のカメラで撮って添付し、短い一言とともにチームメイトたちへ一斉に送信した。
これでみんな、なんとかピンってホルモン出たな。「オレはできる!」ってやつ。
「ハラヘッター!!」
空に向かって一声上げて、田島は家までの道を、行きと同じく軽快な足取りで、しかし確実にスピードを上げて走った。
今日もオレは、どんな球だって打つ。
集合時間は午前七時。急げば三十分の道のりだけれど、試合の日くらいは余裕を持って出かけたい。練習のときよりもきっかり十分早く家を出ることにして、花井は玄関でスニーカーを履いていた。
「「おにーちゃーん!」」
その声に振り返ると、双子の妹がラジオ体操の出席カードを首から下げて立っている。
「「今日応援行くからね、がんばってねー」」
少しの乱れもなくシンクロする妹たちの言葉に思わず頬が緩んで、花井は両手でそれぞれの頭をわしわしと撫でた。右手では遥、左手では飛鳥。片方の手で順に撫でるとどっちが先でずるいとか、すぐにケンカが始まってしまうのだ。
「じゃ、行ってくっから」
「「いってらっしゃーい!!」」
マンションの階段を一気に駆け下りる。その途中で玄関にいたときに携帯が鳴っていたことを思い出して、受信したメールを確認してみた。一言だけの文面、添付された画像。送信者の田島の意図にすぐに気が付いて、花井は小さく笑いを洩らした。
毎日の厳しい練習はもちろん、日常生活の小さな積み重ねでさえも今はすべて野球に繋がる。昨日までにしてきたこと全部は今日の試合のためにあるし、今日の試合も含めた全部が明日の練習のためになる。それは最後の夏まで、途切れることなく続く。大きな大きな、目標に向かって。
(今日の最低限の目標は?)
花井の足が一定のリズムを保って階段を踏む。試合に勝つこと。主将として、五番としての仕事をきっちりこなすこと。
(じゃあ夢のような目標は?)
リズムが少し乱れる。ホームランを、打つ。……全打席で!
誰に思考を読まれるわけでもないのに、花井はそこで一旦立ち止まり赤くなった頬を両手で軽く叩いた。タオルを巻いた頭をぶんぶと振る。呼吸を整えタオルの結び目をきゅっと直すと、再び階段を下り始める。
オレは主将として、いつだってチームの雰囲気を上げていこう。戦術に関しては阿部に任せて、とにかくメンタルしっかり保っておかなきゃだ。そして五番として、溜まったランナーを還すこと。きっと田島は今日も打つ。でも、あいつだけじゃダメなんだ。あいつのことは、オレがホームに還してやる。
マンションのロビーを抜けて見上げた空は、柔らかい青。
「っし。勝つぞ」
そうしてまたオレたちは、目標に一歩近付く。
1番のユニフォームを、出来る限り丁寧に畳んでエナメルバッグに詰めた荷物の一番上に仕舞う。背番号がすぐに目に入るように。そうやって準備するのはもう何度目だろう。でも何度目になったって、このドキドキは変わらないと思う。いつだって特別な気持ちで、三橋は背中に縫い付けられた1番を、そっと撫でる。
目覚まし時計の音が高く響き、それと同時に風を感じた。
「レン! 時間だよー、起きなさい!」
母親の声と布団を剥がされたことで起きた小さな風よりも、寝起きのぼんやりとした視界に映ったユニフォームの1番が、三橋の頭を覚醒させる。
「お、お母さん、天気は? 今日天気、どう?」
がばっと文字通り飛び起きて、母親の答えを待つまでもなく三橋は窓に駆け寄った。まだ低い位置にある太陽はぴかぴかと輝き光を庭木に注いでいる。
「今日は暑くなりそうだよ。日焼けしそうだなあ。レン、ごはんもう出来てるからねー」
トントンと軽い足音を立てて階段を下りていく母親に「わかった」と返事をして、それでも三橋は窓の外に目を遣ったままだった。
天気、いい。暑くなりそう。それは海かプールにでも行くなら何よりの朗報だけれど、試合の日に聞けば、厳しいコンディションになるという報せだ。グラウンドの、マウンドの暑さはスタンドの比ではない。
(アンダー、何枚入れたっけ? もう一枚、持ってった方がいいかも)
部屋の隅に寄せてある洗濯済みの着替えの山からアンダーシャツを引っ張り出す。崩れかけた山をおざなりに直してから、ユニフォームの下にそれを詰め込んだ。
荷物はこれでオッケー、昨日ちゃんとチェックした。アンダーは昨日のうちに四枚入れたし、いまもう一枚。これで充分足りるはず。
体調も、平気。昨夜は早く寝た。寝起きでも、頭はすっきりしてる。体も軽い。立ち上がってゆっくりと肩を回してみる。良く回る。大丈夫、変なトコ、ない。
昨日の夜、三橋は思い切って阿部にメールを送った。『明日も勝とう』という短いメールへの返信はやっぱり短くて、『当然だ。早く寝ろ。』。相変わらず素っ気ない文面だけれど、でもそれは、三橋の思いを当たり前に肯定してくれていた。
(うん。勝とう、阿部君。オレと阿部君と、みんなで、今日も勝とう)
オレはエースで1番で、だから阿部君と協力して相手の攻撃を抑える。攻撃ではあまり役に立てないかもしれないけど、でもきっと田島君や花井君が点入れてくれる。力合わせて、今日も勝つんだ。
体の底から何かが沸いて出てくるような気がした。これはきっとあれだ。志賀先生が言ってたホルモン、「うまそう!」のときに出るやつ。チロ、ピロ…リン? 名前、忘れたけど。
「オレら は、勝てる!」
三橋がそれを言葉に出したとき、携帯が新しいメールの着信を告げた。田島から送られたきた文字のタイミングの良さに、胸が高鳴る。
『うまそう!!』
そして添付されていた青空の画像。携帯の小さな画面一杯のそれは、今日の空だろうか。まだ少し薄い青は、まるでソーダ味のアイスみたいだった。
今日も、勝つんだ。みんなで。
Set,
Go!
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