ビールと烏龍茶





 夏樹はえり香にとって、“一番”の男の子だった。一番の後につけられそうな言葉を考えてみることはたまにある。けれどそれは、どれも当てはまるようで微妙にしっくりこないものばかり。
 一番つきあいの長い男の子。一番気心の知れた男の子。一番身近な男の子。それなのに、今は一番遠くにいる男の子。そして幼馴染のいとこ。
 えり香だって今までに本気で人を好きになったことくらいはある。だから夏樹と自分の間に横たわるものが甘酸っぱい恋愛感情だとは思っていない。淡い初恋とも呼べないような可愛らしい何かは、それこそ本当に二人がまだ可愛らしかった昔に終わってしまっていた。かといって、単純に親戚の一人だと割り切ってしまうのもそれはそれで難しい。誰よりも近くにいるのに誰よりも遠くて、それでも一番の男の子。それがえり香にとっての夏樹だった。



「えり香の飲みっぷり見てるとビールも本望だろって思えてくるよな」
 帰国した夏樹に誘われて、えり香がユキも含めた三人でお酒を飲みに行くことはよくあった。特に確認することもなくされることもなく、誰かがビールの中ジョッキを三つと枝豆を頼む。それが三人で飲むときのお決まりスタイル。
 手を伸ばし、枝豆の皿に手を伸ばす。ちょうど良い塩加減で茹でられた枝豆は、まだほかほかと湯気を立てている。さやをつまんだ爪先は一昨日にぬり直したばかりなので、まだほとんど傷もなく美しい。それは決してこの飲み会のためにしたものではないけれど、やっていて良かったとえり香は安堵の息を吐いた。
「あーねみ……」
 ジョッキを半分あけただけなのに、夏樹はこらえ切れないとばかりに体をずらし、座敷の奥に体を持たれかけさせた。酔っているのが半分、時差ボケで頭がふらふらなのが半分といったところだろうか。いつもなら体調が万全でないこんなタイミングで飲みに来ることなどないのに、えり香がお中元のお裾分けにしらす亭を尋ねるとちょうど用事があって来ていたユキがいて、上から夏樹が降りてきて、せっかくだから三人で飲みに行くかなんて話になってしまった。
「うん、えり香ちゃんはいつもおいしそうに飲むよね」
 夏樹の発言を受け、その隣に座ったユキが同じように頷いた。
「ありがとう、だってビールはいつでもおいしいもん」
 えり香はテーブルをはさんだ向かいで笑い返す。
 宇佐美家にはお酒好きな人が多い。常日頃から集まっては飲む大人たちの様子を小さい頃から見てきたせいか、夏樹もえり香もビールが好きだった。ユキも飲むならまずビール、といった感覚でいるようだった。えり香が女子だけで飲みに行くときはそれなりに甘いお酒を飲むこともあるとはいえ、疲れた夏の夜はやっぱりジョッキごと冷やされたビールがおいしいというのがえり香の持論だ。五臓六腑にしみわたる、という感覚も体にすっかり馴染んでいる。ちなみに夏樹とえり香では、少しだけえり香の方が酒には強い。
 そういえばいつだったか、自分に似てさくらもきっと酒が強いタイプだろうと話を夏樹に振ったことがある。夏樹は「あいつビール飲み過ぎて引かれなきゃいいけど」と余計な心配をしていた。目の前でビールを飲んでいる自分がいるのに失礼なとは思ったが、口には出さなかった。さくらがお酒を飲めるようになるのはまだしばらく先で、引かない相手と飲めばいいだけなのに。女の子はそういうところに敏感だから、さくらもそんな相手を見つけて飲むだろう。そもそもビールがおいしいのは正義だから、そんなことでどうこう思う相手がおかしいのだ。
「今日は何杯いくんだよ」
「さあ、別にまだまだ飲むつもりだけど、夏樹はもうその一杯だけでやめといた方がいいんじゃない」
 夏樹は対抗心なのかなんなのか、止められなければ意地を張っていつまでも飲み続ける。好きに飲んで二日酔いにしんどい思いをするのは本人の勝手でも、酔いつぶれた夏樹を家まで連れて帰る役目を主に担うのは隣に座るユキの役目なので、飲み過ぎを止めたのはえり香なりの親切だ。
「そうだなあ」
 揚げ出し豆腐やだし巻き卵が運ばれてきたのを合図に、ユキとえり香は揃ってジョッキに残っていたビールを飲み干す。温かい料理に箸を伸ばしながら、夏樹用のウーロン茶を含めて二杯目の飲み物を注文した。
「はいお待ちー!」
 忙しげな足取りで、店員はビールジョッキとウーロン茶を盆に乗せてやって来た。注文した数からするとビールのジョッキが一つ足りないことにはすぐに気付いたけれど、成り行きをそのまま見守ることにする。特に戸惑う様子など見せることなく、店員はジョッキをえり香の前に、そしてウーロン茶をユキの前に置いた。夏樹の前にはまだ半分ほど入ったジョッキがあるから、夏樹の前に飲み物を置かないことは簡単に理解できた。
「すみません、ジョッキの中をもう一つ頼んでるんですけど……」
「あ! すみませんっ!」
 伝票を確認すると、店員は慌てて厨房へと戻って行った。ウーロン茶を自分の前から夏樹の手元まで移動させるユキを、えり香は呆然とした面持ちで眺めた。
「えり香ちゃん?」
 一連の流れにどうしても納得いかず、机の上でこぶしを握りしめたえり香をユキが不思議そうに見る。
「どうかした?」
「どうかしたって……。ユキくん今のを見て何もおかしいと思わなかったの!?」
「……何が?」
「何がって? 何がって聞くの? なんであたしの前にジョッキなの? 違うでしょ。あたしとユキくんなら、ウーロン茶をあたしの前に置くべきじゃないの?」
 えり香の精一杯の力説に、だらりと体勢を崩したまま夏樹が鼻で笑った。その様にカチンときたえり香が思いきり冷ややかに夏樹を睨むと、当の夏樹はえり香の視線など痛くもかゆくもないようで我関せずと行儀悪くウーロン茶の氷をストローでつついている。
「別にいいだろ、間違ってないし」
「間違ってないけど! ユキくんだってビール飲んでたのに納得いかな過ぎる。なんであたしの前に当たり前のようにビールが置かれるのよ!」
 ユキはそんなえり香に勢いよく笑い出した。ユキはお酒が入ると、普段よりもよく笑う。少し肩を揺らし、少し声をあげて。
「ちょっとユキくん」
「ご、ごめんえり香ちゃん……でもなんかおかしくって……」
「それ全然謝ってない!ってか笑い過ぎ。夏樹も!」
「えり香が呑兵衛だって見た瞬間に察したんだろ」
「同じ家系のくせに、あんたには言われたくない」
「認めろ認めろ」
 酒が入った夏樹とえり香はだいたい一度はこんな雰囲気になって、テーブルをはさんでにらみ合う。周囲からは喧嘩をしているとしか思えないらしい空気に、ユキが心配そうにしていたのは最初だけだった。今ではすっかり慣れたもので、特に仲裁に入ることもなく「やれやれ」と肩をすくめる。そして「あいかわらず息の合ったやり取りだよね」と言ってはまた笑う。
 ユキは、夏樹のそばに女のえり香がいても、ユキの知らない夏樹を知っているえり香がいても、それを気にしないでいられる男の子のようだった。それは過去を気にしていないだとか嫉妬しないだとかそういうのとはまた違う、夏樹に対する信頼とえり香に対する良い意味での興味や下心のなさ。
 えり香がこんな風に声を荒げられるのは、この世でたった一人、夏樹だけだ。例えばユキとえり香がこれから先どれほど親しくなったとしても、ユキに対してこんな風に接することはきっとできない。そして夏樹にしても、これほど気安く軽口を叩けるのはえり香だけだろう。それが、えり香に唯一残された特権のようなものだとえり香は思っている。幼馴染という年月の上に、あぐらをかいて横たわる特権。
 小さい頃、えり香と夏樹はいつも一緒だった。それは同い年ということもあるけど、近所に遊び相手になるような年齢の子どもが他にいなかったせいもある。血のつながりがあるのも、一緒に遊ばせておくには都合が良かったのだろう。
 だから二人はだいたいいつも隣にいた。えり香にとって一番の男の子は夏樹で、たとえそれが意識したものではなかったとしても夏樹にとって一番の女の子はえり香だった。誰よりも近くてわかりあえるはずなのに、わかりすぎて何も与えてあげられない誰よりも遠い存在。
 学校で怒られたことも、テストで100点を取って誉められたことも、家族の誰よりもそれを一番先に知っていた。それぞれの家の冷蔵庫に入っている今日のおやつだって、見なくてもお互いが当たり前のように把握していたのだから不思議だ。
 二人は成長し、やがてさくらが生まれた。さくらは大人になった今でも夏樹が猫かわいがりしている可愛い妹で、えり香にとっても妹同然に大事な女の子。たださくらが生まれたその瞬間、夏樹の一番の女の子はえり香ではなくなってしまった。ただそれだけだ。
 それは誰かのせいにできない、世の中にいくらでも転がっているやるせなさの一つだと大人になった今ならえり香にもわかる。ただ小学校にあがったばかりだったえり香に、その事実は寂しく突き刺さった。
 今にして思えば当時のえり香が感じた寂しさは実は悔しさで、夏樹が自身の気持ちの変化に何一つ気付いていないということが主な理由だった。えり香が一番の女の子でなくなったことに、えり香だけが気づいていたあの喪失感。



 定期的に誘われはするものの、夏樹とユキはえり香を交えず二人だけでもよく飲んでいる。二人が二人だけのときどんな風に飲んでいるのかまでえり香は知らない。二人には二人の間を漂う空気がある。それは決して他人を拒絶するものではなかったが、えり香はあえてそこに踏み込まないようにしていた。
 繰り返すが、えり香は夏樹に恋をしていない。そのはずだったのに、夏樹が夏樹の一番を見つけたときえり香は二度目の喪失感を味わってしまった。もし自分が夏樹を好いていたのならそれは嫉妬のせいだと理由をつけられもするが、決してそうではないからかえって納得もできずえり香は一時期とても苦しかった。夏樹に対して心を震わせることなどありはしない。それでもそんな嫉妬めいた気持ちを抱いてしまう。そんな自分をえり香は身勝手だなあと笑った。
 えり香は夏樹の顔がユキに優しく微笑む様を見るのがわりと好きだった。さくらやさつきに対する、とことん優しい表情とはまた違う顔をしているから。それはきっと、友情も恋も全部をひっくるめた矢印。ユキからも夏樹に向けて似たような矢印が出ているなと思うことがある。
 ユキ達が江の島にやってきて、ここしばらく仏頂面しかなかった夏樹の表情をあれよあれよという間に変えてしまい、えり香は「外からのパワーってすごい」と単純に思ったものだ。冬を迎えて夏樹は島を去り、それからさらにどんなやり取りを経て二人がお互いを見るだけで顔をほころばすようになったのかをえり香は知らない。きっとこれから先もそれを知る機会が訪れることはないのだろう。
「ねえユキくん」
「なあに、えり香ちゃん」
「あー……、えっとね……」
「うん?」
(男の子ってなんか不思議)
 ユキとえり香は二人きりで会うこともなければ、コイバナをするような関係でもない。夏樹とユキが実際にえり香の考えているような関係なのか。本当のところはよくわからないにしても、二人の間には二人だけの空気があるとえり香は感じていた。
 今だって、ついにうとうとし始めてしまった夏樹を見るユキの目はこんなにも優しい。
 半分ほど飲まれて放置されたウーロン茶の氷が少し解け、音を立てて崩れた。えり香とユキの前に置かれたジョッキも汗をかいて水が滴り落ちている。えり香はおしぼりを手に取り、意味もなくその水滴を拭う。
「……やっぱりなんでもない。夏樹、寝ちゃった?」
「そうみたい。だから帰国してすぐは止めとけって言ったのに」
「ほんとよね」
 夏樹のことよろしくね。
 そのまま勢いに乗って言ってしまいたくなった自分をえり香は抑えた。それは特にえり香が言う必要があることでもなく、伝えることで夏樹とユキの中で何かが変わることもないものだ。そこでえり香は別のことを聞くためにもう一度口を開く。
「ねえユキくん、江の島、好き?」
 ユキは少し首をかしげると「うん」と頷いて笑った。
「だよね、知ってた!」
 体の奥からこみあげてくるような不思議な喜びに、素直に従った今の自分はとても良い笑顔をしているだろうとえり香は思った。
「……えり香ちゃん?」
「何でないよ、私も江の島が好きだから嬉しくなっただけ」
「うん、それは俺もよく知ってる。それに夏樹もなんだかんだ言うことはあるけど江の島が大好きだし」
「……そう、なのかな。夏樹は江の島まだ好きなんだ?」
「そうだよ、夏樹は江の島が大好きだよ」
「へえ……」
 世界に目を向けてしまった夏樹がいずれ島に戻ってくるつもりでいるのかどうなのかと、心配している島の人は多くいる。当の夏樹が、広い世界でもっと自分の力を試したがっていることも聞いていた。単に地元であるというだけで、夏樹が江の島を今でも好きだと思えているかどうかまではあまり自信がなかった。懐かしいことと好きであることは、似ているようで大きく違う。
 ところがユキは、夏樹が江の島を今でも好きでいるとはっきり口にする。そうなのか、夏樹はまだこの江の島を好きでいるのかと、えり香はユキの言葉を頭の中で繰り返して唱えた。そして、えり香にはわからない夏樹の気持ちを代弁してくれるユキにえり香は感謝した。
(良かったね夏樹、ユキくんがいてくれて)
 そうやって夏樹の心中を察することは、もう今のえり香では難しい。それは夏樹に必要とされた人にだけ許された行為に違いない。
(もう男の子って年でもないんだよなあ。……そういや私だってとっくに女の子じゃない)
 とっくにお酒を飲める歳になっていても乾杯を何度交わしても、えり香にとって夏樹は男の人ではなくいつまでたっても男の子のままだった。おじいちゃんおばあちゃんと呼ばれるようになっても、もしかしたらそうなのかもしれないと少しだけ思う。


 一番の男の子と、彼の大事な人がこれからも幸せでありますように。
 後ろめたいことなんてなに一つないはずなのに、隠すようにひっそり心の奥にしまった願い。ビールの泡と一緒になって、いつもより少しだけやさしく喉を通り過ぎていった。



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   本編より数年後で、夏樹もユキもえり香もお酒を飲める歳になっています。
   えり香にとっての夏樹と、えり香からみた夏樹とユキ。
   幼馴染のいとこについて考えた結果こうなりました。



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