|
隠し味のレシピ
「よし、できた、かな」
さくらは炊きたてのご飯を白い皿によそい、上にチーズを散らした。作っておいたサラダを冷蔵庫から取り出し、ドレッシングを添える。コーンスープもおいしくできた。
そしてソファで待っているユキを呼んだ。
「ユキさん、ご飯できたよー」
「おいしいにおいがするね」
さくらはエプロンを外して椅子にかけ、ユキの前にカレーの皿を置いた。
「今日のカレーは自信作なんだから」
「いただきます」
「はい、めしあがれ」
真新しい机に、染み一つないランチョンマット。色鮮やかなカトラリーのそばに飾られている花は、昨日の披露宴で飾られていた花の一部だ。
ユキの口にスプーンが運ばれていくのを見届けて、さくらもカレーを一口食べた。
うん、おいしくできている。
自分で作ったカレーながら、とても懐かしく、優しい味がした。
「おいしい。……けど、あれ?」
ユキが首をかしげた。
「どうかした?」
「前に夏樹が作ってくれたカレーの味によく似てるかなって」
「……さすがユキさん、よくわかるね」
さくらはスプーンを置き、引き出しから一冊のノートを取り出した。
「これをね、お兄ちゃんがくれたの」
「なんのノート?」
ユキの指がノートをめくる。
雑誌の切り抜きを貼っただけのページもあれば、手書きで残されたメモもある。表紙はすでに色褪せ、端も擦り切れているそれは、夏樹とさくらにとってなによりも大切な手作りのレシピノートだ。
「夏樹がくれた……けど夏樹のじゃないね。字が夏樹のと違う。……さくらちゃん、これは?」
「これね、お母さんのノートなの」
その言葉にユキは何かを察したようで、さくらは頷いた。
「そう、真理ちゃんじゃなくて、しのぶお母さん」
ノートには、ハンバーグや肉じゃが、卵焼きにポテトサラダ、そしてお浸しにカボチャの煮つけ。夏樹がよく作ってくれた料理がそこにはずらりと並んでいる。
さくらはさらにノートをめくり、カレーのページを開いた。
カレーの材料は、ジャガイモ・人参・玉ねぎ・牛肉そしてカレールー。
隠し味として、トマト・ヨーグルト・チーズの三種類が記されていた。
@ トマトは細かく刻み、野菜とは別にしっかりと炒めておくこと
A ヨーグルトはルーの直前に投入し、入れてからはあまり沸騰させないこと
B チーズはよそったご飯の上に敷き、その上にルーをかけること
C 全体的に水は少なめで、とろみを出すのがおいしく作るコツ!
「ユキさんも知ってると思うけど、さくら、お兄ちゃんのカレー大好きなの」
夏樹が帰ってくるたびに、さくらはカレーをせがんだ。せっかく日本に帰ってきたのだからゆっくり休んで欲しい気持ちと、カレー作って欲しい気持ちとでいつも複雑だった。
「夏樹、そういやうちでカレー作ってったこともあったね。さくらちゃんが好きだからって笑ってたよ」
「そうなの。大好きだったんだけど、お兄ちゃん、カレーの隠し味だけはどんなに頼んでも教えてくれなくて」
夏樹がいた頃はよかった。さくらが好きだと知っているから、夏樹はよくカレーを作ってくれた。その味がさくらはとても好きだった。
やがて夏樹がアメリカへと旅立ち、身重の真理子に代わってさくらが台所に立つことも多くなった頃、さくらは夏樹が使っていたのと同じルーでカレーを作った。
「でも違ってたの」
出来上がったカレーはパッケージの裏に乗っているレシピ通りに作ったし、具材も夏樹が入れていたのと同じ物を使った。ルーをかける前、夏樹がやっていたようにご飯に細かく刻んだとろけるチーズを乗せることも忘れてはいない。
「使う材料も全部同じはずなのに、さくらの作ったカレーは、お兄ちゃんのカレーとは全然違ってたの」
さくらはそれが不思議で、その夜わざわざ夏樹に電話をした。
「ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんが作ってくれてたカレーって、チーズ以外に何か特別なことしてたの?」
「どうしてだ?」
「さくらね、今日カレー作ったの。でもお兄ちゃんのカレーと全然違うんだもの」
「ルーは?ルー違うと味も違うぞ?」
「一緒だよー、お兄ちゃんが使ってたのと一緒。さくらちゃんと覚えてるもん」
「そうだなー」
電話の向こうで夏樹は少し迷っているような気配だった。
「悪い。……隠し味は、さくらにはまだ教えられないんだ」
「ダメなの? さくらもお兄ちゃんカレー作れるようになりたい」
「ごめんごめん、今はまだダメなんだ。でもいつかちゃんと教えてやるから。待ってろ?」
それからさくらが何度となく頼んでも、夏樹が隠し味をさくらに教えてくれることはなかった。それどころか、帰国した夏樹はさくらの前でカレーを作らなくなってしまった。さくらが学校に行っている時間を見計らって作るか、そうでなければ真田家のキッチンを借りるという徹底振りに、さくらもいつしか隠し味を問うことはなくなった。
さくらが高校生になる頃にはさくらにはさくらなりのカレーの味ができあがり、真理子の作ったカレーもおいしかった。
お兄ちゃんカレーは、夏樹がたまに作ってくれるからこそおいしいカレーなのだ。そう思うことにしてさくらはここ数年を過ごした。
「結婚式の3日前にね、お兄ちゃんが来たの」
「夏樹がお土産持ってきた日?」
「そう、その日」
式に先立って、ユキとさくらは仲見世通りから少し奥へ入ったところに家を借りた。宇佐美家にも真田家にもどちらにも行きやすく、広くないけれど庭もついた、こじんまりとした家だ。この庭にはいずれ、ユキが花を植えるつもりだという。
家具を選び入れ、お互いの家から運んだ荷物を少しずつ片付ける一方で、食事だけはそれぞれの家に食べに帰るという生活を送っていた。
そこへ、帰国した夏樹が土産を持ってやってきた。ちょうどユキは外出中で、さくらは式の当日に持っていく小物の類をスーツケースに詰めながら、花嫁の手紙に何を書くか考えているところだった。
「どうしようかな……」
披露宴の終盤で読まれる花嫁の手紙は、今まで育んでくれた両親へ感謝の気持ちを伝える。
保はいいとして、産んでくれた母しのぶも真理子も、さくらにとってはどちらも大切な母だ。できればしのぶについても、一言でいいから触れられたらいいと思う。けれど花嫁の手紙でさくらがしのぶについて話すことは、真理子にとってはどんな意味を持つのだろう。真理子はきっと何も言わないだろう。けれどほんの少し、寂しいと思ってくれるかもしれない。
二人いるどちらも大切な母に、いったい何をどんな風に伝えれば、さくらの気持ちをきちんと伝えることができるだろうか。
どうしても入れなければいけないイベントではないので、ユキはさくらの好きにしたらいいと言ってくれていた。ずっと考えているのになかなか結論は出ない。いっそのことユキの言うとおり、花嫁の手紙はなしにしてしまおうかとも考えていた。
そこでインターホンが鳴り、さくらは夏樹を出迎えた。
「お兄ちゃん、いらっしゃい!」
「どうださくら、準備は順調か?」
「うん、あとはもう当日を待てばいいの!」
お茶くらいなら入れられるからと、さくらは夏樹を新居に迎え入れた。
「散らかってるけどゴメンね」
「いいよ、だいぶ片付いたみたいだな」
「ユキさんと頑張ったんだー。まだまだダンボールいっぱいだけど」
さくらはピカピカと輝くヤカンでお湯を沸かし、土産とは別に夏樹が持ってきてくれたケーキを皿に移した。ティーカップとケーキ皿は宇佐美家の棚で眠っていたもので、宇佐美家にしては気の利いた柄をしている。
「手がいることとかあるか?」
「うーんどうだろ。心配なのはお天気くらいかな、この調子だと雨みたいだから」
「晴れるといいな」
「うん、晴れてくれたらね」
そして夏樹は鞄から古びた一冊のノートを取り出した。
「これ、にいちゃんからのプレゼントだ」
「プレゼント? このノートが?」
「そう、俺はもういいから。今度はさくらが大事にしろよ」
さくらは首をかしげながら、その見覚えのないノートを受け取った。
「なんのノート?」
「長い間、黙っててごめんな。……これ」
夏樹が指し示したのが、今ユキとさくらが見ているカレーのページだった。
「お兄ちゃん、本当はアメリカ行くときに渡していこうかと思ったんだって」
「でも夏樹、さくらちゃんにはカレーのレシピは秘密にしてたんじゃなかったっけ」
お盆に合わせて帰国した夏樹がユキの家を訪れて大きな鍋にいっぱいのカレーを作り、ユキと夏樹が二人がかりで運んできたことを思い出したのだろう。「重かったなぁ」とユキがつぶやいた。
「うん。一度は渡そうかと思ったけど、やめてアメリカに持ってったみたい」
「なんでだろ?」
「多分だけど、お兄ちゃんカレーって本当はお母さんカレーで、あの味はしのぶお母さんの味だから? さくらがそれを作ってたら、真理ちゃんに悪いってお兄ちゃん考えたんじゃないかな。お兄ちゃんその辺はなにも言わなかったけど」
「……それってすごく夏樹らしいね」
「ユキさんもそう思う?さくらもそう思う」
さくらはユキと目を見合わせて笑う。
「このノートのレシピってね、お兄ちゃんがよく作ってくれたメニューばっかりなんだ」
「そうだったんだ」
「それってさ、さくら、ちゃんとお母さんの味で育ってきたってことでしょ?」
「お母さんの味がさくらちゃんの体を作ってきたんだね」
母の残したノートの味をそのまま母の味と知ってしまえば、さくらは食事のたびに母を思い出し、悲しみから立ち直るまでにもっと長い時間を要したかもしれない。
夏樹がアメリカに旅立つのと前後して真理子が宇佐美家にやってきた。もしノートを受け継いださくらが台所でしのぶの味を再現したなら、それは真理子にとってもさくらにとってもあまり良いことではないと夏樹は判断したのだろう。もっと時間がたって宇佐美家が本当の家族としてまとまり、そこにしのぶのノートを出しても家族の愛情が揺らがなくなるまで、夏樹は待っていたのかもしれない。
これはあくまでさくらの予想でしかないけれど、きっと大きく間違っているということもないだろう。
スプーンにご飯とカレーをすくい、「だからね」とさくらは続けた。
「だからね、この家でユキさんと食べる最初のご飯は、カレーにしようと思ったの」
長い時間をかけて準備した式と披露宴をようやく終え、多くの人に祝福されて、今日から二人の生活が始まる。
本当はユキの好きなきんぴらごぼうやだしまき卵を作るつもりだった。でも夏樹から受け継いだノートを見ていたら、カレー以外のメニューはもう考えられなかったのだ。
「うん、おいしいね」
「この味、お母さんの味なんだって」
「夏樹とさくらちゃんの大好きな味だね」
「そうなの。さくら、この味が大好きなの……」
そうして言葉にしてしまうともう止まらなかった。さくらの瞳からは後から後から涙がこぼれ落ち、カレーを食べるどころではなくなってスプーンを皿に戻す。
あっという間にぼやけた視界の片隅で、ユキから差し出された白いティッシュが揺れた。
悲しくて流す涙ではない。けれど、手放しで嬉しいのとも少し違う。
胸の奥にしまいこんでいた宝箱。何を入れていたのかも忘れてしまっていたけれど、久しぶりに出会った宝物。そんな懐かしさと、再び出会えた喜びと、ずっと忘れていたことに対するほんの少しの後ろめたさと。
「さくら、ずっとお母さんの味で育ってきたんだって」
しのぶの作ってくれたご飯はもちろん、夏樹がさくらのために作ってくれたご飯にすらも、しのぶからの愛が満ちていた。そして夏樹がアメリカに旅立ってから真理子が作ってくれたご飯にも、間違いなく愛が溢れていた。
その愛に育まれて、さくらは今ここにいる。
「ねえさくらちゃん」
「はい」
「おかわりしていいですか」
「はい、どうぞ」
さくらがユキの皿に手を伸ばそうとすると、ユキは「いいよ、自分でやるから」と炊飯器の蓋を開けた。
「あーあー。さくら、式でも泣かなかったのに、なんで今さら泣いちゃうんだろう」
「さくらちゃんが愛されてるって証拠だよ」
二杯目のカレーをよそって戻ったユキの手が、さくらの頭を優しく撫でた。
「保さん、大泣きだったじゃん」
「お父さん教会の扉が開く前から泣いてるんだもん。さくら、本気でどうしようかと思った」
「俺は責任重大だなって思ったよ……」
さくらのドレス姿に感極まったのか、保はバージンロードを歩く前からすでに泣いていた。介添えの人がそっとハンカチを差し出してはくれたけれど、到底一枚で足りるものではないほどに。
「……見せてやりたかったなあ」
ふとこぼれた言葉が誰を指しているのか、さくらにはすぐにわかった。
「さくらも見て欲しかったな……」
「いや、でもきっと見てくれてるさ。だってほら」
保はさくらを促して後ろを振り向いた。
「昨日まではあんなに雨が降ってたのに、今日はこんなにいい天気じゃないか」
「……うん」
天気は人の力でどうにかなるものではない。まして人の思いがそこに加味されることはない。そうはわかっていても、そこに意味を重ねたくなる気持ちは、さくらにはよくわかった。そこに誰かの愛を信じたくなるほどに、劇的な天候の回復振りだったのだ。
まばゆい光の中で扉は開かれる。さくらは熱くなる目頭を感じながら、すでに真っ赤な目をした保と腕を組んでユキの元へ向かった。
「ねえさくらちゃん」
「なあに?」
「このカレー、本当においしいね」
「……うん」
「次は、俺も一緒に作っていい?」
「……うん!」
このカレーはお母さんカレーで、お兄ちゃんカレーで、そしてこれからはさくらのカレーでもある。そうやって受け継がれていくこの味が、家族の味というものかもしれなかった。
「ユキさん、明日はユキさんのきんぴらごぼうとだし巻き卵の味を教えてくれる?」
ユキは少し驚いて、そして嬉しそうに笑ってくれた。
「うん、一緒に作ろうか」
------------------------------------------------------------------------------------------
夏樹が作っていたお兄ちゃんカレーの隠し味とさくら。
本編より数年後のお話で、ユキとさくらちゃんは結婚しました。結婚式の翌日のお話です。
〔 TOP ・ つり球 〕
|