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切り取った世界の中心で
両親の顔は知らない。物心ついた頃にはいなかった。
オルガンの上に飾ってある写真は、今までに祖母と二人で撮った節目の写真しかなかった。最近そこに、新しい写真が一枚追加された。祖母が気に入って、わざわざ焼き増ししてもらった写真。
宇宙人パニックに江の島が揺れてその翌日には、とびっきりの笑顔と別れの挨拶と五人で撮った写真を一枚だけ残して、ハルとココはウララを連れて星へ帰ってしまった。
「「さよーならー!」」
「「さよーならー!!」」
ココを真ん中にして撮った写真は大きく引き伸ばされ、新しくなったヘミングウェイの壁にも飾られている。それを見るたび、もっと普段からたくさん写真を撮っておけば良かったという思いが頭を過ぎる。
あれだけ側にいたハルがいないくなったことにまだ慣れない。江の島に来る前のように二人だけの生活に戻っただけなのに、家はやけに寒々としている。
洗った皿を拭くのはハルの仕事。皿を洗いながら、つい「ハル、皿落とすなよ」なんて声をかけてしまって、気まずくなって祖母を見る。彼女は笑って「ハルは元気にしてるかしら」なんて優しく答えてくれるけど、してはいけない質問をしてしまったような後味の悪さが残る。
「あいつのことだから元気だよ」
「そうねえ、気持ちよく泳いでるんでしょうね」
暖炉の上に飾られた写真の隣には、今でも金魚鉢が置いてある。その中で泳いでいた魚がココだったと知ったのは、ハルとココが地球を去る間際になってからだった。主がいなくなった鉢は、今でも祖母の手によって大切に手入れされている。
自室にも大きな水槽がある。前の住人が置いていったと思われるその水槽は、引っ越しの荷物を片付けようとしてクローゼットの中から見つけた。そのまま置いていては荷物が入らないので引っ張り出し、置き場に困ってベッドの枕元に置いた。
水は入れず、江の島の海岸で採ってきた砂だけを入れている。
ベッドに座ると、ちょうど水槽を通り越して窓の向こうに広がる海が見える。景色をそのまま切り取ったようなこの水槽をとても気に入っていた。海の入った水槽。
なあハル、お前、元気にしてるか?
「オレも明後日には発つ」
ハルが帰ってからアキラが去るまでの数日は、また釣りをして過ごした。砂浜に伸びるのは、一人欠けて三人になった影。
世間が宇宙人に大騒ぎをしているのを尻目に、江の島一帯はDUCKのおかげで簡単に平常を取り戻した。地球を救った英雄として取材攻めにあうこともなく、学生らしく夏休み明けの課題テストと宿題の提出に追われた。
新学期がスタートしても、アキラは一度も登校しなかった。潜入目的だった監視対称のハルはすで地球を去っているし、DUCKとしての後始末に追われているのだろう。ただユキと夏樹が釣りを始めると、どこかで見ていたかのようにやってきては一緒にルアーを投げた。
「次はどこに行くんだ?」
「さあな、いったん本部に戻って、次はそれからだ」
「そういうもんなのか」
「そういうものだ」
宇宙人に心を許した罪で除名処分を受けていたアキラは、地球を救った功績を認められて咎を帳消しにされた。ユキや夏樹にしてみればアキラが職を失わなくて安心したのだが、アキラ曰く「昇進してもいいくらいの功績」だそうだ。
本当はアキラの新しい任務先もすでに決まっているのかもしれない。ただそれを一般人に教えることができないだけなのかもしれない。大きな組織である割には秘密主義らしいから、実際にアキラの行く先を知ることはできない可能性もある。
「明後日だなんて、けっこう急だね」
「まあそういうな。上からの命令は基本的に絶対。これが社会人の辛さというものだ」
「引っ越しの準備は?手が必要なら手伝うよ」
「そんなに荷物もないから大丈夫だ。ありがとうな」
本気なのか冗談なのか、アキラはまた遊びに来ると約束して江の島を去った。走り出す車を、夏樹と二人で橋の袂から見送った。黄色い車が見えなくなるまで手を振った。
海から伸びる影はまた一つ減り、二つになってしまった。
授業の合間にタピオカの鳴き声が聞こえてこないことにも、しばらく慣れそうにない。
なあアキラ、またきっと一緒に釣りをしようよ。
「俺、アメリカ行こうと思う」
「アメリカ?行くの?いつ?」
「できれば年明けくらいには行きたい」
「そっか、行ってらっしゃい」
秋になって制服のまま海に向かうのが少し肌寒く感じるようになった頃、夏樹がそう切り出してきた。
夏休み以降、夏樹はたまにアメリカへの憧れを口にするようになっていたから、遅かれ早かれそんな日がいつかくるだろうとわかっていた。あまり好きではなかった英語の勉強に力を入れ始め、たまに発音のチェックを頼まれるようになってから何となくそう予想していたことだ。
父親とのわだかまりも消え、新しい家族ができ、夏樹もこの半年で大きく変わっている。
朝に夕に雨の日も晴れの日もランニングを欠かさないのは、体力をつけるためなのだと知っている。そしてそれは全て、大物を釣りあげるための努力だと知っている。
「夏樹なら絶対できるよ、応援してる」
「ありがとな」
それから留学先の学校や本場の大会のことを少し話して、でもその日は二人とも一匹も釣れなかった。
夏樹の決意を聞いてちゃんと笑えていただろうかと、交わした会話を帰る道々思い出す。大丈夫、前々から覚悟していたことだ。多分ちゃんと笑えていた。
ハルもアキラも笑顔で見送った。夏樹のことも笑顔で送り出したい。
ハルとココが星に帰り、アキラが新しい任務地へと赴き、そして最後に夏樹が夢を追って江の島を旅立つ。
誰も彼もが先に行ってしまう。
それぞれの新しい門出を応援する気持ちは間違いなく持っている。ただそれを上回る寂しさは、気づけない振りなんてできないほど大きかった。
こんなに感傷的な気持ちになるなんて、数ヶ月前は思ってもみなかった。そんな複雑な内心はさておいても、その日の話題はやはり夏樹の渡米話以外にはない。
「ばあちゃん聞いてよ、夏樹がさ、アメリカに行くんだよ」
「まあアメリカに?ということは、プロを目指すのね?」
「うん、そうみたい。おじさんともいろいろ話して、応援してもらえることになったからって」
「いつ?」
「年明けには行きたいって夏樹言ってた」
「まあ、じゃあ学年の途中で行ってしまうの。ユキも寂しくなってしまうわね」
「そうだね……」
食後のお茶を入れ、祖母は食卓からソファへと場所を移す。
「夏樹の夢、叶うといいなぁ。俺、何かをしたいって強く思ったことってあんまなかったから、余計にそう思うのかもしれないけど」
「夏樹君ならきっと大丈夫。ユキも、大丈夫よ」
カップからじんわりと伝わるぬくもりに、ほっと息を吐く。
ずっとそばにいてくれた彼女に心配をかけるのは本意ではなくて、弱音に似たものは極力吐かないようにしてきた。それでも聡い彼女には、ユキの内心なんて全てお見通しだっただろう。
たった一人残った夏樹が旅立つことをユキが何よりも寂しく感じていることも、きっと伝わってしまっているに違いない。
「……ねえばあちゃん、やっぱり俺、寂しいなって思うよ」
「それはその通りよ。だって、夏樹君は大切な仲間でしょう」
大切な人と離れ離れになるのは寂しいものよ。
その言葉が一般論なのか、それとも彼女個人の経験によるものなのか。ユキはその実、彼女の生い立ちをほとんど知らない。
「ハルはきっと星で仲間と一緒に楽しく暮らしてる」
「アキラはきっと新しい土地で一生懸命仕事してる」
「夏樹はきっとアメリカでブラックバスを釣ってプロになる」
江の島が好きだ。ここに来て良かった。『素敵なところよ』とウィンクした祖母の言葉に間違いはなかった。波の音に何よりも心安らぐ。
けれど、その潮騒も今のユキを慰めてはくれない。
「寂しいことは、いけないことではないわ」
楽しいことも嬉しいことも、悲しいことも寂しいことも、すべて大切な気持ちなのよ。どう感じるかには、全て理由があるのだから。
静かな言葉は砂にしみこむ水のようにすっと入り込んでくる。
「でもずっと寂しいままでいるのは寂しいことね」
「……うん」
二人同時にお茶を飲みほし、カップを受け取って洗い場で軽くゆすぐ。
「じゃあねユキ、おやすみなさい」
「おやすみ、ばあちゃん」
階段を登る背中に「良い夢みてね」と小さく声をかける。
戸締りを確認しておこうと、玄関へ向かう。二人分の靴をついでに揃えながら思う。
ひどく悲しい未来ではあるけれど、あの優しい祖母だっていつかは逝ってしまうのだ。
歳の離れた家族と二人きりというのは、ひどく不安な生活だ。特に祖母は入退院を繰り返していたから、一人きりの夜はなおさらに不安だった。炊事洗濯に関しては一通り教え込まれていたけども、そんなものでカバーできない孤独がそこにはある。
病院へはなるべく見舞いに行き、その他に寄り道もせずに早く帰るようにしていた(もっとも一緒に遊ぶような友人もいなかった)。
負担にならないように、不安にさせないように、心がけて良い子でいた。
部屋に戻っても電気をつける気分にはとてもなれなくて、まだ早いけれど明日に備えてそのまま寝てしまおうかと、ベッドに腰掛ける。
おいていかないで、ここにいようよ。
ふと涙がこぼれそうになって、慌てて枕に顔を押し付けた。今さら寂しさに押しつぶされそうだなんてそんなに弱くない。女々しくない。そんな弱さは、それこそ小学生の頃に克服したはずだ。
せっかくみつけたのに、どうしてみんないってしまうの。たいせつないばしょ、ようやくみつけたのに。
こみ上げてくるものを何とかやり過ごして視線を上げると、水槽の向こうにはいつもの切り取った海が見えた。その水槽のガラスに、外から差し込んだ光で何かがキラリと反射する。
「……?」
何か光るものがあっただろうかと部屋を見渡すと、扉の側に立てかけたタックルが目に入る。
もう一度海を見て少し考えて、釣り道具一式は持たずにそっと部屋を抜け出した。夜の散歩くらい見つかっても大らかな祖母は怒らないだろう。それでも秘密めいた自分の行動に気持ちが少し明るくなったのは事実だ。
いつもの釣り場ではなく、橋を渡って砂浜の方へ足を向ける。江の島に来たばかりの頃、キャスティングの練習で何度も竿を振るった砂浜だ。遠浅の海岸なので、ここから釣れるものは特に何もないと聞いている。
砂の上に腰を降ろし、波が押し寄せては帰っていくのを見るともなしに眺める。
『ちょっと乾いちゃったから』
「俺も水が欲しいよ、ハル」
緊張して息苦しくて、水の中で溺れるような感覚は今でもよくある。それでも夏樹や海咲に歩のように、構えずに話せる人間もできた。今までのことを考えると、大きな大きな進歩に思える。
その中に確かにいたはずのハルやアキのことを考えると、何とも言えない気持ちになる。二度と会えないわけではないのかもしれない。でも再び会える可能性はとても低いように思えた。
そしてついに、夏樹までも行ってしまう。
水の外にいるはずなのに、こんなにも息苦しくてつらい。水に放した魚のように、すいすいと上手に泳げればいいのに。
「えの、しま、どーん…」
期末のテスト期間中にクラスで回し読みされていた漫画を借りて、腹が筋肉痛になるほど笑ったこと。
スーパーで箱のアイスを買って、じゃんけんで好きな味を選んだこと。
夏祭りの夜に花火をしたこと。花火はやったことがないというハルと、特にココがいつになくはしゃいでいた様子がおかしかった。
「えの、しま、どーん…」
来たときにはずいぶん遠くにあったはずの波打ち際が、足の少し先まで来ていた。そういえば、いつの間にかずいぶんと寒い。
もう少し厚めの上着を着てくれば良かったな。
どうせなら缶コーヒーでも買ってこようか。
そろそろ動かないと靴が濡れてしまうかも。でも乾きやすい素材だから少々は平気だろう。
いっそのことこのまま濡れてしまってもいいかもしれない。
「えの、しま、どーん…」
頭の中ではいろいろ考えても、いつまででも海を眺めていられそうな気がしてこのまま動きたくない。
『そういうときこそ、投げんだよ』
出会ったばかりの頃に夏樹からかけられた言葉が浮かんで、こんな気分のときも“そういうとき”なのかもしれないと思う。やはり釣り道具も持ってくれば良かったかもしれない。
『みんな、すまない』
すまないことなんて何もなかったよ、アキラ。だってここはいつだって世界の中心で、その中心で釣りができたんだから。
立ち上がることをあきらめて砂の上に倒れこめば、空には満天の星々。どこかにハルの星がある。
どんなにキラキラした今も、いつかは全部が過去という思い出になってしまうんだろう。この寂しい気持ちも時間とともに消えていくものなのかもしれない。
別に今が楽しくないわけじゃない。過去になってしまうのが、ほんの少し寂しいだけだ。
それでも自分は今この瞬間この海にいて、明日もきっと釣りをしている。今はそれが全てで、それが何よりも大切だ。
“どんなときも笑顔で、胸張って”
春の日も夏の日も秋の日も冬の日も、晴れていても雨が降っても、きっと海に向かう。
海はどこへでも繋がっているし、空を見上げれば星はそこで輝いてる。
繋がっている。伝わっている。
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ハル・アキラ・夏樹を見送るユキです。
ユキは今まで旅立つばかりで見送ることに慣れていないだろうと思ったらたまらなくなりました。
夏樹の留学云々は捏造です。
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