おめでとうを君に





「泳ぐ練習しとくか」
「……」
 隣を歩いていたはずの夏樹の声が後ろから聞こえた。ユキが振り返ると、夏樹は海と道を隔てる塗装の剥がれた柵に手をかけ、先を争って海に飛び込んでいく楽しげな若者の姿じっと見ている。気付かぬ間に歩みを止めていたらしい。泳ぐ練習とはまたずいぶん唐突だなと、ユキは夏樹の背中を見た。
 9月も半ばも過ぎればそろそろ秋に差し掛かっていても良いはずなのに、日本列島はいまだじっとりと暑く、江の島に本格的な秋がやってくるにはもうしばらく時間がかかるらしい。朝と晩はさすがに涼しく過ごしやすくなってきたものの、今日だってレジャーシートやクーラーボックスを携えた人々が意気揚々と海水浴場を訪れている。
「残念でした。俺、水着なんて持ってないよ」
 海の近くには住んだのは江の島が初めてだ。普通なら喜び勇んで海へ遊びにいくのかもしれないが、江の島で釣りという趣味を見つけた今のユキが、泳げない海へわざわざ泳ぎに行きたいと思うこともなかった。水着を買おうと思ったことすらない。
「なーに言ってんだ、水着なんてそこら中で売ってるだろ。安いのでいいから好きなの選べ。ほら」
 確かに駅から島までの道のりには、水着や浮き輪を扱う店がいくつも軒を連ねている。わざわざ遠出しなくても目的のものはすぐ手に入るだろう。季節を過ぎてもまだ営業を続けている店舗を指差し、夏樹は逆の手でユキの手を引いた。
「俺も海パンどこにしまったか忘れたし、一緒に買う」
 何が夏樹をそこまで急かすのだろう。今すぐに水着を買おうという流れになっていることにはユキもさすがに驚いて、その場で足を踏ん張って夏樹を引き留めた。
 確かに今までにも何度か「泳げるに越したことはない」と言われてはいたが、それはあくまで「その方が安全だ」という話であって、では泳ぐ練習をいついつしようなんて具体的な話にはなっていなかったはずだ。
「今から?」
「そう、今から」
「夏樹、水着持ってるってさっき言ったじゃん? 買うの? わざわざ? 帰って探せば?」
「思い立ったが吉日って言うだろ」
「……」
 その勢いに押され、結局ユキは夏樹に流されるまま適当な水着を選ぶ。店内に人は少なく色も丈も選びたい放題だというのに、残念ながらじっくりと見るだけの時間を与えてはもらえなかった。
 店主に頼み込んで試着室でそのまま着替えさせてもらい、夏樹が二人分の着替えと荷物をコインロッカーに放り込むのをユキはもったいないと思って見ていた。そこまで高いものではないにせよ、思いがけず水着という出費に財布を薄くする羽目になったユキ。言い出しっぺの負い目だろうか。ユキにコインロッカーの使用代まで半分出せとは夏樹も言わなかった。
 わざわざお金を払わなくても、ヘミングウェイに置かせてもらうなり家まで置きに帰るなりすればいいのに。そうすれば海から上がった後に体を拭くタオルの心配だってしなくてもすむだろうに。
 普段であれば手間でもなんでもないはずの距離と時間まで省こうとする夏樹は、とにかく一分一秒でも今を無駄にしたくなさそうだった。まるで今日を逃せば泳ぐ練習をする日はもうないんだとでも言いたいかのようにも見える。
(ああ……。なるほど)
 そしてユキはその理由を簡単に理解してしまった。夏樹は多分、来年の夏までは待てないのだ。来年になって、再び江の島が夏を迎えるまで待ってはいられないと。
 年々暖かくなっているとはいえ、お盆をとっくに過ぎたこの時期、海にはもうクラゲが出ていると聞く。今日は良く晴れているけれど、いつ台風が来ないとも限らない。そこそこ暖かく波も穏やかな今日こそが、まさに“思い立ったが吉日”なのだろう。
 こうなっては仕方がない。浜で念入りに体操をすませ、ユキは海へ足を踏み入れた。裸足の足が波打ち際の砂にずぶずぶと沈んでいく。引く波に砂が取られ、バランスを崩してたららを踏むユキを、夏樹が「緊張してんなよ」と背後で笑った。
「大丈夫だってこれくらいは」
 泳げないのを理由にできるだけ近寄らなかっただけであって、別に水を怖いと思ったことはない。水は思ったほど冷たくはなく、ユキは安心して腰まで海に入ってしまうことにした。
「ほら、まずは浮いてみろ」
「俺だって浮くくらいはさすがにできるって」
「ほんとかよ」
 それからユキは浮いてみたりゴーグルをつけて水の底を這ってみたりと、夏樹の指示に従って忙しく水と戯れた。偏光グラスをかけて見た海の中も充分きれいな世界だと思ったけれど、自分の上から光が降り注ぐ様というのは魚が泳ぐ様とはまた違った意味で美しかった。ゆらゆらと昆布が誘うように波間を漂っている。
「夏樹はちゃんとおよげんの?」
「バカにすんなよ、俺は生まれも育ちも島生まれだぞ」
「だよね」
「ほら、型はもうわかっただろ、ユキも泳いでみろよ」
「うん……」
 実際にやってみると、泳ぐことはそう難しいことではなかった。むしろなぜ今まで泳げなかったのか、疑問に思ってしまうくらいには簡単だった。夏樹はあっという間に泳げるようになったユキを見て、自分の指導のおかげだと満足そうに頷いた。そんな夏樹に向かってユキは出来心で水をかける。頭から水をかぶるつもりがなく眼鏡をしたままだった夏樹が「錆びるだろ!」と怒鳴り、そこから水かけ合戦が始まってしまったのを合図に水泳教室は終わりを告げた。



「バイト中だって、いくらでも機会はあったのに」
 夏を惜しむかのようなバイトの声に、ふらふらと引き寄せられる。温かいものでもと思っていたはずなのに、浜に戻ってきた二人の手には冷たいかき氷があった。山をストローで崩しながら、陽の当たる砂浜に並んで座る。
「……なんで急に泳ぎなんて教えてくれようとしたんだよ」
「さあ、なんとなくだよ。でも泳げるようになってユキだって良かっただろ」
「当ててみせようか」
「……」
 夏樹は何も答えず、かき氷を口に運んだ。大きな塊が残っていたのか、氷を噛む音も聞こえてくる。そして拭くものがなく水しぶきの跡が残ったままのレンズ越しに、夏樹の瞳が「当ててみろよ」と言った気がしてユキは口を開いた。
「島、出るつもりなんだろ」
「……」
「もし俺が海に落ちても、一緒にいないんじゃ助けられないから。……だからひとりでも大丈夫なように、俺に泳げるようになれって思ったんだろ」
 あれはユキとハルが夏樹に釣りを教わるようになってしばらくたった頃。借り物ではなく自分の釣竿を持ってみたいと、おぼろげな希望を持ち始めた夏の初め。
 恥ずかしながらとユキが泳げないことを告白したことがある。するとハルが「大丈夫、ぼくバッチリ!」とピースサインと共に笑った。すると続いて夏樹が「ライジャケつけてんだから、落ちてもしばらくは大丈夫だろ。浮いて待ってろ」と頷いた。それはつまり、万が一ユキが海に落ちることがあっても、ハルと夏樹が助けてくれるということだった。
 二人に甘えたわけではないけれど、そんな会話があったからこそ、ユキは今すぐ泳げるようにならなくてもいいかと思ったのだ。それなのに、今になって夏樹はユキに「泳げるようになれ」と言う。理由なんて、夏樹がユキのそばからいなくなろうとしているとしか考えられなかった。
「すげーなユキ。……よくわかったな」
「わかるよそれくらい」
 むしろそれくらいのことがユキにわからないとでも思っていたのだろうか。
「どうしてそんな急に決めたんだよ。……来年までいるつもりはないの」
 夏樹は「そうだなあ」と小さくつぶやいた。
「……さつきが生まれるって聞いてさ」
 聞き覚えのない名前にそれは誰のことだと一瞬だけ考えたものの、ユキはそれが真理子の中に宿った新しい命のことだとすぐに見当をつけた。
「いろいろ考えたんだ。部屋数はある程度確保できた方がいいんだろうとか、真理子さんだって俺がいたらやりにくいこともたくさんあるだろうとか」
「……」
「でも俺が追い出されたように感じてるわけじゃないのは、ユキならわかってくれるだろ? 俺、行きたくて行くんだ。バスプロ本気で目指してみたくて、アメリカで力試したいんだ」
「……うん、それはわかってるから」
 夏樹と保の間にあった確執を知る人々は、だいたいが夏樹と真理子の関係についても心配していた。それは夏樹のそばにいたユキだって同様だ。ただ周囲の心配を余所に、一つ屋根の下で家族として暮らし始めた夏樹と真理子は案外うまくやっているようだった。それは保が「皆でたくさん話そう」と家長らしく宣言し、それを夏樹と真理子が受け入れ対話を重ねているおかげでもある。
「ひとりで溜めこむのはやめたんだ」と夏樹は笑った。
「名前もう決まったの? 早くない?」
「昨日決めたらしい。性別もわかってないのに気がはええよなー」
「いい名前だね」
 ユキが素直にそう伝えると夏樹は嬉しそうに名づけの理由を教えてくれた。
 予定日が五月であること。五月の異称に“さつき”があること。
 そして、さくらの「さ」となつきの「つき」を合わせて“さつき”であること。すべて植物に関係のある名前であること。
「さくらは自分が考えたんだーって言ってたけど、俺は真理子さんが親父と一緒に考えたんだろうなと思ってる」
 自分の名を含む弟妹の名を、夏樹は「さつき」と愛おしそうに呼んだ。その声音を間近で聞いたユキの心臓が震えて胸が切なくなるほど愛おしそうに。
「俺としてはその下が産まれたら今度はどんな名前になるんだろうって余計な心配もしてるけど、まあ親父と真理子さんが納得してるならいいかなとも思って」
 夏樹が真理子のことを母と呼ぶのを、ユキはまだ聞いたことがない。そして思う。その母という心から優しい響きを聞くことはきっとこれからもないのだろうと。夏樹とユキの母はすでになく、夏樹と真理子では姉弟といっても通じる程度の年齢差しかない。
「ずっと、ひとりだと思ってた。あの家に居場所がなくても、釣りがあればそれでかまわないって。でも違った。離れたってあそこはこれからも俺の家だし、ここにはユキがいてくれる。ひとりじゃないって、すげー心強いよ」
 ユキにケイトがいてくれるのと同じように、夏樹にも保たちがいる。
「さつきが生まれるんだ。妹か弟かわからないけど、家族が増えるんだ」
 新しい家族ができることを、夏樹がこんなにも嬉しいと笑う。ユキはそのことを、何よりも嬉しいと思った。早く生まれてこないかなと目を細めた夏樹に、ユキの口から深く考えるより先に言葉が出てきた。
「夏樹も誕生日おめでとう」
 行儀悪くストローで氷をかき混ぜていた夏樹がその手を止めて瞬きを繰り返し、「今さら誕生日かよ」と言った。
「だって言いたくなったんだよ。あの日は正直なところ誕生日どころじゃない雰囲気だったし」
「そうだったな」
「さつきちゃんが生まれてくることを夏樹が嬉しいって思うのと同じように、俺は夏樹が生まれてきてくれて、今ここに――俺の隣にいてくれて俺が大丈夫なように考えてくれて、すごく嬉しい。……だからおめでとうって言いたくなった」
「うん。……ありがとな」
 すっかり溶けてただの甘い色水になってしまったかき氷を飲み干して、夏樹が「そうやって俺もユキも年食ってくんだよな」と笑った。目の前にあったものを投げ出したのではなく捨てたのでもなく、一気に飛び越えて大人びてしまった夏樹の笑顔。空になった紙コップをくしゃりとつぶした音が、ユキの中で繰り返し響いた。
 夏樹の舌が、ブルーハワイの青色に染まっている。同じようにユキの舌はイチゴの赤い色をしているだろう。これが今年最後のかき氷。夏の間だけの特別な色。
 ――ああ、夏が終わる。
 素直にさびしいとは言えなかった。すべてが上手くいっているように見えても、夏樹だって本当はさびしくてたまらない気持ちを抱えているのだとわかっているからだ。家族が増えても、なくした存在のことはいつまでも忘れられない。新しい存在を受け入れて、なくしたものの存在が余計に際立つことだってある。欠けてしまったピースを雑踏の中に求める癖がなかなか消せないことも、ユキは誰に教えられることなく知っていた。



 それでも夏樹が前を向いて歩もうとしているのならば、ユキだって負けてはいられない。いずれは一人で立って、自分の力で歩かなくては。
 ただ今だけは、こうして夏樹の存在がここにあることを喜んでいたい。
 夏の終わりに海で泳いで、かき氷のシロップで舌を染めて。


 何度でも言うよ。
 ――生まれてきてくれて、今この瞬間そばにいてくれて、こんなにも嬉しいと。
 さつきだけではない。誰でも望まれて、祝福されて生まれてくるのだと信じたいから。


「誕生日おめでとう、夏樹」



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   夏樹、誕生日おめでとう!!!
   泳ぐ練習をするユキと、さつきについて話す夏樹。当日ではなく本編が終了して9月半ばくらいのお話。
   生まれてきてくれてありがとう。そしておめでとうを君に。
   『ありがとうを君に』と微妙にタイトルをかぶらせましたが、さつき絡みというだけです。



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