ラブレターfrom江の島





「じゃあ俺、先に休憩もらうから」
「オッケー!」
「はい、こちらはおまかせください」
 船が落ち着いたのを見計らって、ユキは操舵室の壁にもたれて座り込む。
 受験生になった今年の夏も、ユキはこうして歩の釣り船を手伝っている。ハルと、そしてようやく釣りに慣れてきたウララも一緒に。
 真夏の日差しを避けられるここは、この船ではユキの一番のお気に入りだ。雨の日は難しいが、今日のようによく晴れて凪いだ日は、ユキは必ずここに座って昼食をとる。
 手繰り寄せた自分の鞄から海咲が持たせてくれたお握りと、そして一本の瓶を取り出して脇に置いた。中身は液体ではない。透明なワインボトルが、太陽の光と海の反射を受けてきらきらと光る。
 いよいよだ。ユキは悩みに悩んだ計画を実行するため、荷物にこっそりとこの瓶を忍ばせて持ってきた。いよいよ今日、これを海に投じるのだ。
 コルク栓を覆った蝋の封印を確かめるのも、もう幾度目になるかわからない。中身は厳重にラップで包み、さらに万が一を考えて、チャック式の保存袋にも入れた。
 そうまでしてユキが水から守ろうとしているそれは、遠く離れたアメリカにいる夏樹へ宛てた手紙だ。この瓶がどこへ運ばれるかもわからないことを考えて、通常では考えられないくらい多めに切手を貼った、一通のエアメール。そしてそれは、一般的にラブレターと呼んでも差し支えない、想う相手へ気持ちを届けるためのものだ。



 学校帰りのハルが「あれやりたい!」とユキの袖を引っ張ったのは、もう一ヶ月は前のことだ。幼稚園の校庭で、園児と先生が揃って一生懸命に空を見上げている。つられて見上げたユキは、いくつもの風船が風に吹かれて飛んでいく姿を西の空に見た。
「風船とばしたい!」
「あれは風船を飛ばすのだけが目的ではないのですよ、ハル。わたくし以前に見たことがあります」
「そうなの?」
「そう、多分あれは、紐の先に手紙をつけてんだ。『この風船が届いたら、ぜひお返事をください』って」
「ふうん、いいなあ楽しそう。あれで夏樹とアキラのところにも手紙届けられる?」

「それは……。ちょっと遠い、な」
 夏樹のいるアメリカはもちろん、アキラも今はもう日本にいない。二人とも、海を隔てた遠い国にいる。
「風船は、そこまでずっと飛んではいられないのですよ、ハル」
「そっか……」
 しょんぼりと顔をくもらせたハルを見かねて、ウララが救いを求めるような視線をユキに投げかけた。
「帰ったら手紙でも書いてみるか、ハル。アキラの住所は教えてもらってないけど、DUCKの誰かに聞けば届けてもらえるかもしれないし」
「うん、書く書く!」
 どうせならココにも手紙を書きたいと言って、さっきまでとは打って変わって上機嫌になって歩き出したハルの後を追う。そしてハルたちと一緒になって手紙を書きながらユキが思いついたのが、手紙を空へ飛ばすのではなく、海へ流すことだった。
 通称“ボトルメール”と呼ばれる海に流された瓶詰め手紙の行方は、ほんの時々ほほえましいニュースとなって夕方のニュースやバラエティ番組で取り上げられることがある。
「ゴミかと思ったらね、なんと手紙が入ってたんだよ!」
「まさか拾ってくれる人がいるなんて! ボトルを流したのはもう何年前のことだろう、すごいことだよ、これは」
 流した瓶はほんの数日で陸に流れ着くこともあれば、数十年の年月を経て砂浜から発見されることもあるという。たとえ長い間波間をただよった手紙でさえも、水に濡れさえしなければ、手書きの文字が読める状態で残ることも。
 遠いアメリカまで、風船が飛んでいくことはできないだろうけど、ガラス瓶ならどんな荒波だって越えていけるかもしれない。
 だからユキは、夏樹への気持ちをこのボトルメールに託すことにした。
「届く、かなあ。……いや、普通に考えて届かないってわかってるけど。もしだよ、もし誰かが拾ってポストに入れてくれたとして、だ。できればその前に言いたい、よなあ。うん」
 ひんやりとした瓶が、早鐘をうつユキの心を落ち着かせようとしている気がした。頭を撫ぜる風も、空から降る鳶の声も、今日はいつになくやさしく感じる。
 いつかこのボトルは夏樹のところに届いてくれるだろうか。できることなら、ユキはその前に自分の口で夏樹に気持ちを返したい。




「俺、ユキが好きだ」
「………」

 二人しかいない釣り。空模様があやしいから、もう今日はやめて帰ろうか。
 そんな話をしていて、片づけの途中で突然告げられた夏樹からの気持ち。ユキはとっさに言葉を返すことができず、穴があくほどに夏樹の顔を眺めた。そのおよそ冗談とは思えないほど真面目くさった夏樹の顔を見ているうちに、心臓が今よりもずっと早く鼓動を刻み始めたことだけはよく覚えている。
「ダメ元だし、ユキがどう答えたって態度変えるつもりもねーから」
 その言葉に甘えて、ユキはそれからしばらくの間ずっと考えた。そして夏樹がアメリカに渡ってしまう前に返事をしようと心に決めて、自分の中に見つけた気持ちを何度も伝えようとして、けっきょく釣りに打ち込むひたむきな姿を見てそのまま口をつぐんでしまった。
 ほんの少しだけ、勇気が足りなかった。
 見知らぬ土地でやっていこうとしている夏樹の将来を考えたら、たとえそれが夏樹の望んだ形だったとしても、到底ユキに「好きだ」と返せるはずもなかった。
 遠くはなれた今でも、毎日のように顔を見て話すことはできる。その言葉通り、待ちぼうけを喰わされている夏樹がユキへの態度を変えることは決してなかった。だからこのままいっそのこと、夏樹からの告白自体をなかったことにしてしまえたらと思ったこともある。
 それでもユキは気づいてしまった。大勢いる、ごく普通の友人では嫌だ、と。きっと親友でも足りない。もう一歩分だけ、夏樹に近づきたい。
 さつきの誕生に合わせて帰国した夏樹が大勢の人に囲まれる姿を見て、ユキはそう強く思った。
「それなのに、言えなかったんだよな、俺……」
 ため息ならいくらでも出る。夏樹の帰国中に伝え損ねた気持ちはまたユキに「言わなくてもいいってことかもしれない」と後ろ向きな気持ちを連れてくる。
 お盆になれば、また夏樹が帰国する。夏樹の誕生日もある。だから、今度こそ夏樹に気持ちを伝えたい。  ユキは祈るような気持ちで瓶に額を押しつける。
 万が一にもこれが、江の島の浜に打ち上げられでもしたらどうしよう。届かないことよりも、ユキはそれが一番おそろしい、と思う。
 それならこんな瓶に頼らずに、手紙をそのまま送ればいい。覚悟を決めてこれを準備したはずなのに、やはりいざとなってみると不安なことばかりが頭をよぎるものだ。
 なんといってもこれは夏樹へ宛てたものだから、個人情報云々には目をつぶってもらうことにして、夏樹の名前も住んでいる街の名前も書いた。見知らぬ他人からだと気味悪がられないよう、ユキのイニシャルだって書いてある。
 江の島はとても小さい。夢を追って島を出ていった夏樹の名前は、下手をすれば今の活躍ぶりまで含めて藤沢や鎌倉の方まで伝わっている可能性だってある。そして近しい人間なら、イニシャルだけで差出人がユキだとわかってしまうだろう。
 夏樹に届かないなら、それはそれでかまわない。もし仮に、拾った誰かが消印の押されていない切手を自分のものにしてしまっても、それは仕方がないことだろう。これは夏樹とユキ以外の誰の手に渡っても、何の意味もないものだ。
 だからこそ、この近辺の浜に流れ着くことだけは何としても避けなければ――。
 潮の流れを調べ、満ち引きを考え、風向きを読んで、ユキはついに計画を実行に移す。



 夏樹が好きだ。
 伸びてぼさぼさになった日本人特有の黒い髪は、日にすかすと実は少しだけ毛先が茶色く見える。ロッドを握る腕、硬くなった手のひら。マスクからもれた息でくもる眼鏡。  隣に立って海に向かうたびに見える、夏樹の横顔。本当はずっとその隣に立って、同じ景色を眺めていたい。
「宇佐美君ってなに考えてるかイマイチわかんないよね」
「いつも怒ってそう」
 そんなぶっきらぼうに見える部分はほんの表面でしかなくて、その懐に入れた相手に対してはとことん甘い夏樹。そうかと思えば釣りに関しては全然妥協してくれなかったところも、今となっては良い思い出だ。
 夏樹が好きだ。本当は声を大にして、難しいことなんて何も考えることなくそう伝えたい。
 夏樹が好きだ。好きなんだ。


 ユキは瓶を額から離し、祈るような気持ちで口づける。そして勢いよく海に向かって放り投げた。

 ぽちゃり。
 風と鳶の鳴く声にまぎれて、音はほとんど聞こえなかった。ユキの手を離れた瓶はあっという間に波にさらわれていく。


 海の神さま釣りの神さま江の島の弁天さま、ほんの少しでいいから、勇気をください。
 このボトルがいつか夏樹の手元に届く前に、必ず本人に伝えますから。
 伝えるための、小さなきっかけをどうかください。
 夏樹のことが、好きなんです。



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   5/23は恋文の日だそうです。そしてキスの日でもあるそうです。



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