そして始まる物語





「ちょっと遠出しない?」
 待ちに待った冬休み。夏樹が兄・姉とも慕う二人の結婚式と渡米の準備でバタバタとしている中、ユキがそう誘ってきた。
「どこまで?」
 買い物にでも行きたいのだろう。遠出といってもせいぜい横浜か東京あたりだと思ったら、そこは夏樹もかろうじて聞いたことがある、くらいの地名だった。 「……それって、何県?神奈川…じゃねえよな?」
 驚いたことに、すでにユキはそこまでかかる料金も道順もおおよその時間もすべてを調べ上げていた。江の島からだと一日で行って帰ってこられるギリギリの距離。一応観光地ではあるようだが、日帰りするつもりなら観光はほとんどできない。
「始発、とまではいかないけど、それと似たような時間になると思う。多分だけど帰りもかなり遅め。いい?」
「別に一日くらいなら何とかなるけど」
 ユキも準備で江の島中を走り回り、夏樹ほどでなくてもそれなりに忙しいはずだ。時間がないとわかっていてどうして誘ったのだろうと夏樹は不思議だった。
 その辺りを詳しく知りたいと思いながらも夏樹も忙しさにかまけてついに当日を迎え、道々聞こうと思いながらもユキと二人して眠気には勝てず、うつらうつらと心地よく電車に揺られてしまった。

 江ノ島から乗り換えを四度こなし、目的の町についたのはもう昼を過ぎた頃。
「疲れてない?俺はちょっと疲れた」
 大きく伸びをしながらユキが聞いてきた。
「大丈夫だけど、さすがに腹がなー。ユキは減ってねえの?」
「いや、減ったよ。でもあんまり時間ないし、コンビニでいい?」
「ああ」

 近くのコンビニで食料を適当に見繕い、駅まで戻って誰も待っていないのをいいことにバス停のベンチに座った。ユキが急ぎたいというので手早くお茶と一緒に腹に流し込みながら、夏樹はようやく本題に入る。
「ユキ、そろそろ聞かせろよ。なんでこんな所まで来たんだ?」
「……おじいさんに、会いに来た」
「じいさん?ってことは、ケイトさんの旦那さん?」
「あー、いや違う。血のつながりとかは全然ないよ」
 ユキは小学生の頃、この町に住んでいたと答えた。
「その頃から俺は今とあんまり変わってなくて、人ともちゃんと話せなかった。でも俺が通りがかるたびに必ず声かけてくれたおじいさんがいたんだ」
 朝は「おはよう」。夕方は「おかえり」とユキに必ず声をかけてくれていたおじいさん。
「でも俺は、そのいかにも雷オヤジですって感じのおじいさんが怖くて怖くてたまんなかった。いるじゃん?いつも怒ってるみたいな人。目を合わすのも怖いのに、挨拶なんてとてもじゃないけどできなくて、駆け抜けるようにしてたんだ」
「へー、おじいさんがな」
「……最近になって思い出したんだ。ほら、夏樹がこの間お茶入れてくれただろ?それで思い出した。そのおじいさん、古めかしいお茶屋さんの人だったから」
 そういえば先々週だったか、遊びに来たユキに夏樹が急須でお茶を入れてやったら「いいにおいだね」とやけに感動していた。別にそのお茶は新茶でも高級茶でもないごく普通のスーパーで売っているお茶だったけど。
 紅茶好きの祖母に倣って紅茶をおいしく入れられるユキは、日本茶にはあまり馴染みがない。
「しばらくして俺とばあちゃんはまた引っ越して、俺はこの町のこともすぐに忘れた」
「ふーん」



 数ヶ月とはいえ実際に住んでいた町のことだ。ユキも駅までくればわかるだろうと思っていたらしく、駅からの道順を調べていなかったのがいけなかった。日本茶の店という手がかりを元に、駅の周辺をグルグルと歩くはめになる。
「ごめん夏樹……」
「いーっていーって、商店街とか探すか。それか、案内所とかで聞いてもいいし」
 途中スマホで検索するとお茶屋さんはあるもののその店は新しそうで、ユキ曰く「古めかしい店」ではなかった。ユキ自身があちこちを転々としていたため、当時住んでいた住所の字すらも思い出せない。
「この辺でお茶屋さんっていったら一軒しかないわよ」
 どうしようもなくなって買い物袋を下げたおばさんに聞いた。その店はついさっき検索して出てきた、新しげな店だった。
「ユキ、あそこじゃないか?」  お茶を挽いた良い香りが風に乗って届く。道の向こうに赤い毛氈を敷いた椅子が見えた。
「うーん、なんとなく覚えがあるようなないような……。でも場所的にそこのような気がしないでも、ない」
「どっちだよ!」
 リニューアルでもしたのかあるいは全く別の店なのか、ようやく見つけた店は今風の外観を備えていた。
 もしこの店がユキの記憶にあるお茶屋だとするなら、そのおじいさんは店前の椅子によく座っていたらしいが、どうやらその姿もない。
「いないみたいだな」
「みたいだね。……まぁ会えたからってどういうこともないんけど。そもそもここがその店かもわかんない」
「とりあえず入ってみるか」
 喫茶スペースを備えた店のようで、窓には甘味のメニューが貼ってある。そのメニューに惹かれたのと駅からずっと歩いてきたので喉も渇いている。そろそろ休憩を挟みたいと夏樹が提案すると、ユキは少し迷いながら頷いた。
 店に入り、案内されるまま椅子に座る。注文をとりにきた店員は若く、レジ越しに見える厨房にもおじいさんという年代の人は見当たらなかった。
「全然考えてなかったけど、経営者が同じとは限らない、か」
「店自体は新しいみたいみたいだしな。でも聞いてみろよ。リニューアルして店譲って、引退して家に引きこもってるだけかもしれないだろ」
「そう、かな……」
 夏樹が窓ガラスに貼ってあったお汁粉のセットに決めると、ユキはその隣のわらび餅のセットを頼んだ。どちらも程よい甘さがおいしく、冷えた体にじんわり染みた。



「ありがとうございましたー」
「あ、あの……」
 お釣りと一緒に渡されたレシートを握り締めて、ユキは勇気を振り絞った。ユキの顔が緊張を帯びていくのを、夏樹は一歩下がった場所から眺めた。
「ここ、に、おじいさんいませんか?」
「おじいさん?」
 若い店員は少し怯えた様子で疑問符を飛ばした。目を吊り上げた(まるで怒っているような)外国人に(赤い髪だし)話しかけられれば誰でもそうなるだろう。まあ、無理もない。
「もう十年くらいは前なんですけど」
 二人とも固まって話が進まないので、夏樹は後ろから口を挟んだ。
「十年くらいは前っていうと……ああ、もしかしてうちのおじいちゃんのことかな?おじいちゃんね、三年前に」
 まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、ユキの強張らせた顔を一気に素へ戻すほどの威力を持っていた。
 おじいちゃんは三年前に。その言葉ですべてが分かってしまった。この人がおじいちゃんの孫であろうことも。
「そう、ですか……」
 記憶の店はここで間違ってはいなかったが、ユキは目的を失い力なく頭を下げた。


 さて、気落ちしているらしいユキになんて声をかけようか。店を出て数メートル歩いたところで、後ろから呼び止められた。
 振り返ると、厨房にいた中年の男性が前掛けで手を拭いていた。
「もしかして君、昔この辺りに住んでたことない?」
 突然声をかけられて、ユキの顔がまた強張り始めている。
「は、はい…」
「そうか、やっぱり」
 その髪で思い出したよと続けられて、ユキはますます訳がわからないようだった。
「あ、あの…?」
「君がさっき聞いたおじいさんの息子だよ。――ずっと昔だけど、親父から君の話を聞いたことがあるよ」
「俺の……?」
「最近姿を見ないけど、赤い髪の子は元気でやってるだろうかって」
「そう、ですか…」
「それにしても大きくなったなぁ、君がこの辺りに住んでいたのは小学校の低学年くらいだったろう?」
「はい、二年生のときです」
「今は?高校生?」
「高二です」
「そうかー、で?今日はどこから来たの?」
「あの、江ノ島から…」
「江ノ島?あんな遠いところから来たの?」
「はい」
「そうか、よく来たね。何か用事があってこの町に来たのかい?それにしても、元気そうで何よりだよ」
「はい、あの…。俺、元気でやってます」
 おじさんは嬉しそうに笑い、「もし時間があれば」と切り出した。
「その道を右に曲がって少し進むと寺がある。そこの二列目、右から三個目のがうちの墓だよ。そんなにたくさん数があるわけじゃないからわかると思う。もし君が嫌じゃなければ」
 おじさんは一度言葉を区切って迷うように地面を見、再び視線をユキに戻した。
「……会いに行ってあげてくれないか」
 その言葉にユキはためらいなく頷いた。降って湧いた突然の墓参りを嫌がっている様子はなかった。



 教えられた道を辿る間に花屋があったので、墓前に供える花を買うために寄った。
 墓に参ったことがないユキの選んだ花は、供え物としては正解だったけど数が足りなかった。もう一つ追加するよう促して店を出る。
 その先に寺はすぐに見つかった。

 入り口でユキと別れ、夏樹は桶と柄杓を借りきて水を汲む。
 先に行かせたユキは目的の墓の前で所在なさげにうなだれていた。
「話できたか?」
「……何を言っていいかわかんなくて。こんにちは、くらいしか言えてないよ」
「会いたかったんだろ?元気ですって、伝えてあげればいいだろ」
「そっか……」
 墓はきれいで、こまめに手入れされている様子が見て取れた。それでも一応水をかけて清め、花を取り替える。
「あとは、合掌して」
 夏樹が桶と杓を返し、古い花を捨て、他の墓をぐるりと一周してきても、ユキはまだしゃがんで手を合わせていた。話したいことがみつかったのかもしれない。そっとしてやりたい気持ちもあるが、ここまでにかかった時間のことを考えると帰りが気になる。
「ユキ、帰りの時間って大丈夫か?」
「あー、そろそろヤバいかも」
 ユキは膝の土を払いながら立ち上がり、二人でもう一度手を合わせ、家路を急いだ。



 帰り道。
 電車の揺れに促されたようにユキは話を始めた。途中で言葉を途切れさせてはまたつなげ、頭の中を整理しているようにぽつりぽつりと。
「俺さ、江の島に住んでハルに出会って夏樹に出会ってアキラに出会って、いろんな人と出会って、今までの俺とちょっとだけ、ほんのちょっとだけど変われたような気がするんだ」
「いや、お前はちょっとどころかすげー変わったよ。しゃべるようになったし笑うようになったし、すげー明るくなった」
 夏樹はユキと電車で初めて会った朝を鮮明に覚えている。なんでもない振りをしていたけど、すごい顔だと思っていたから。ひどい顔だとも。
 般若顔が出るのは今でも変わらないが、表情豊かなユキの性格が出始めている分、人から恐れられることも少なくなっている。
「最初は仲見世通り歩いてて挨拶されても返すこともできなくて。相手からしたら、気づいてるくせに返さないのって、すげー嫌なやつだっただろうなって」
「まあな」
「江の島の人はみんなあったかいよね。こんな俺にも根気よく接してくれてさ。それでようやくわかってきたんだ。俺は江の島に来るまでもずっと同じように過ごしてきた。でも、今までも確かにいたんだ。俺はいつもいっぱいいっぱいで気づかなかったけど、そんな俺のことを気にかけてくれてた人たちが」
 だから会いたかった、とユキは続けた。静かな話は乗り換えを経てまだまだ続く。
「あのおじいさんは、俺が返事しなくても懲りずに毎日声をかけてくれてた。俺は挨拶を返せなかったのが気にはなってたけど、どうせできないのに気にしててもしょうがないから、そういった思い出はなるべく忘れるようにして…。
電車で来れて、一日で行って帰れるって距離にはこの町しかなかった。今までばあちゃんと二人でいろんなとこに住んだけど、あとは新幹線とか飛行機とか使わなきゃ行けない距離なんだ。車が運転ができたらまた違うのかもしれなかったけど」
「外国住んでたこともあるんだったっけか?」
「あーうん、フランスにも少し住んでたよ」
 ユキの四分の一を形作る国、フランス。祖母譲りの赤い髪。
 フランスについて夏樹が知っていることといえば、首都がパリで凱旋門があること。道を歩けばカフェばかりあって、シャンゼリゼの元ネタだということくらいだ。
 この半年でユキが自分のことをこれだけ話すのは、さくらを探したあの夜以来だった。そばにいれば自然と漏れ伝わってくることも多いけど、実際に本人から言葉で聞くのはまた違う。
「俺もこの間パスポート取ったしな。…いつか行ってみたいな」
「それもいいかも」
 英語すらままならないのに気が早いなと思いながら、夏樹はまだ見ぬフランスの町をユキと二人で歩く姿を想像した。
「行って何がしたいのかって聞かれると、ちょっと答えづらい。でも俺きっと、いろんな町に忘れてきたものがあると思うんだ。この町で出会ったおじいさんみたいに。それはきっと俺の中で隙間みたいに欠けている部分で、今日おじいさんに―――会えなかったけど、忘れ物は見つけられたような気がする」
「良かったな、ユキ」
「うん」
 満ち足りたユキの顔に、いい笑顔だなぁ好きだなぁなんて再確認してしまって、旅立ちを決めたのは自分自身なのに、やっぱり行きたくねえなぁと夏樹は素直に認めた。


 年が明けたら、夏樹が日本を旅立つ日はすぐやってくる。それは、ユキの親しい人間がもう学校にはいなくなるということでもある。
 少しでもクラスメートと会話が続くように仲を取り持ってやりたい気持ちはあったけど、間に他の人間を入れるのは嫌で、ハルとアキラがいなくなってからの時間をそのまま二人で過ごした。二人の空気は心地よかった。
 わがままにつき合わせて、結果、ユキはまた一人ぼっちになる。
「一人で会いに来る勇気はなかった。だから、夏樹が忙しいって知ってたけど誘った。――今日は、本当にありがとう」
「いや、俺は別に…」
「ううん、夏樹がいてくれてよかった。一人じゃないって思ったから、俺、ちゃんと向き合えた」
 ユキに選ばれたのだと思うと、夏樹にあるのは言い知れない優越感。隙間を埋めた瞬間に立ち会うことを許されて、ただただ嬉しかった。
「またいつだって付き合うし」
「アメリカ行くんだろ?」
「帰ってくる。そしたらまた行こう」
 どうにかして次の約束を取り付けたくて、まだ行ってもいないのに帰ることを考えている自分がおかしくて、夏樹はしっかりしろと自分を諌めた。
「…そだね、また行けたらいいな」
 同じ車両に他の乗客はいない。誰に見られる心配もないのに、コートの下にそっと隠して手を重ねた。



 年が明ければもう日本にはいない。

 ユキを置いて江の島を出る。外へ出れば、望む望まざるに関わらず、変わってしまうと夏樹はわかっていた。いつまでもここにはいられない。新しい世界の扉を開くということは、多分そういうことだ。その変化が良いのか悪いのかは、過ぎてみないとわからない。ユキを誰よりも大切に思うことだけは変わらないだろうけど。
 そしてユキもこれから先、置き忘れた欠片を見つけていくうちに少しずつ変わっていくだろう。どこが?と聞かれて言葉にしようとすると上手く形にできなくてポロポロこぼれていくような、そんな些細な部分が確かに変わっていく。ユキの場合は、きっと良い方向へ。
 夏樹がバスプロへの扉を開くのと同じように、新しい世界の扉はいずれユキの前にも開かれる。でも変わっていくユキを夏樹が見ることはできない。外へ出てしまう夏樹は、どうしたってユキのそばにはいられない。




 全部を電車のせいにしてしまおうと夏樹は思った。こんなにも寂しいのはすべて、この揺れのせいだ。
 江ノ島に戻れば結婚式と渡米の準備とで、気持ちは前に向かって進んでいけるはずだ。
 長椅子の真ん中で、肩を寄せ合って二人。
 窓の向こうには、流れていく灯火。
 外はもう暗くて寒くて、でもこの車両の中だけは明るくて暖かくて。

 全部はこの電車のガタガタとしたゆるやかな揺れのせいなのだ。
 そう考えて、夏樹はユキと二人で電車に揺られた。



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   あきらめることに慣れたユキと、ユキをそこから引っ張り出したい夏樹。
   自分と重ねてしまって、何となくもどかしい夏樹です。
   自転車云々は夏目からいただいてきました。



TOPつり球