そして大空へ





 春から夏へ、そして秋と冬。季節はさらにめぐり、ユキが江の島で過ごした二回目の夏が終わった。
 秋になりたてたの頃はそれでも「涼しくなって過ごしやすくなった」が主流だったあいさつも、それが10月ともなれば「寒くなったね」「風邪には気を付けましょう」が多くなってくる。海水浴の季節を終え、一度は落ち着いたかに思えた観光客も、今日ばかりは夏に負けず劣らずの人出になるだろう。そう、今日は年に一度、江の島の花火大会の日。


 場所取りを目的にした人々で、江の島は朝からごった返している。昼を過ぎてさらに増え始める観光客を相手に、ヘミングウェイはいつものように飲食を提供する。さすがに手が回らないので、ユキだけでなくこの日はハルとウララも店を手伝っている。
「忙しいねえ」
「目がまわりそうですねえ。でも花火までもうすぐです。ハル、わたくしたちもがんばりましょう」
「うん、がんばるっ!」
 ハルだけでなくおっとりした性格のウララでさえも忙しく立ち回り、店舗の前にあつらえた屋台と店内を行き来している。 なかなか途切れない客を相手に日中は休憩も満足に取れず、交代でバックヤードに駆け込んでは海咲お手製のサンドイッチをジュースと一緒に流し込んだ。
 狼煙の音がする。それを合図に急に人の動きが騒がしくなったかと思うと、突如として人の訪れがゆるやかになった。時計の針は、ユキがこの日一番きてほしいと願っていた、花火の始まる時間をさしている。
「ユキ、ハル、ウララ、もう店はいいからそろそろ座れ」
 花火が始まってしまえば、客足はとたんに遠のく。運び出された机と椅子と大量のつまみが、今日一日を忙しく働いたユキたちをねぎらう特等席ということらしい。
「ちょっと俺、寝転んで見てみようかと思います」
 ユキも去年は夏樹と一緒に椅子に座って眺めたが、持参したシートの上で寝そべって空を見上げる人がうらやましかったのを覚えている。ヘミングウェイの前はゆるやかな坂になっているから、寝転んでも真上しか見えないということがなくてちょうど良い。
 アナウンサーの声とともに盛大に花火が始まった。花火を初めて見るハルのはしゃいだ声が後ろから聞こえる。
 スターマインの群舞に目を奪われ、ときおり打ちあがる変わり種のヒヨコやサングラスの花火に夏樹を思い出して笑みを誘われる。江の島の空にいつもは見える星でさえも、この夜ばかりはそっと息をひそめて花火に主役の座を譲っているようだ。
 ひときわ大きな花火と音。続く人々の感嘆。酔客だろうか、誰かが「たまや〜」と声をあげると、全く離れた場所から「かぎや〜」と合いの手が入る。暦の上では今が秋だったとしても江の島の人にとってこの花火は夏の終わりを告げる花火なのだと、そう夏樹に教えてもらったのは確か去年のことだった。
 ――そのときまだ、ユキの隣には夏樹がいた。夏樹の隣にはユキがいた。

(本当は今年も一緒に見ようかって話も出たけど)
 遠く離れた夏樹が、そうたびたび日本に戻ってこられないことは本人もユキもよくわかっている。とはいえ世界は驚く速さで進化を遂げているし、その恩恵にあずかってこの花火の様子は全世界に向けてネットでも中継されている。海を隔てたあちらとこちらで、同時に同じものを眺めることだって無理ではない。
 ただ無理ではないというだけで、花火大会当日の忙しさはユキも去年に店を手伝ったから身に染みてわかっている。店に慣れないハルやウララだけに任せ、ユキがひとり家にこもってネット中継を見ようなんてことができるわけはない。暖を求めに来る客も、場所取りを済ませて観光する客も、入れ代わり立ち代わり店を訪れる。花火が始まってからも、店をあけている以上、客が訪れない保証はない。そんな状況でユキが海咲たちに早く帰りたいと言い出せるはずがないともわかっていたのだろう。
 夏樹は冗談めかしてほんの一度「一緒に見れたら良かったな」と口にしただけで、それからしばらく花火の話題がふたりの間で交わされることはなかった。思い出したように『そういや明日花火大会ってそろそろだったよな』と夏樹が言い出したのは、先週のことだ。
「よく覚えてたね」
 夏樹がわざわざこちらの行事日程まで把握しているのは珍しいような気がしていると、夏樹は『さくらが楽しみだって話してたから』と答えた。
『……ユキは今年もヘミングウェイから見るんだろ?』
「うん、お客さん途切れてたら去年みたいにみんなと見る予定だよ」
『そっか、お客さん途切れるといいよな。でも途切れてなくても花火はちゃんと見ろよ』
「そりゃ見たいとは思ってるけど、無茶言うなよ夏樹。どしたの」
『………。いや、なんでもない』
「ほんとに?」
『本当だって』
 不思議がるユキに、夏樹はなにも答えようとしないまま花火の話題は歯切れ悪く終わってしまう。
 正直なところ、ユキは花火大会やイルミネーションのような祭りがあるからといって、率先して参加するようなタイプではない。それよりは釣りをするだとか、家でのんびりする方が好きだ。はっきりと聞いたことはないが、夏樹も似たようなことを思っているだろう。それでも一緒に花火を見れば感動するし、イルミネーションは素直にきれいだと思う。イベントは好きな人と一緒だからこそ楽しいのだと、今は隣にいられないからこそ、その魅力が少しユキにもわかりかけている。
 もしかしてこれほど夏樹が花火にこだわるのは、去年のように隣で座って見られないことを夏樹も残念に思っているからだろうか。もしかしたら自分はネットの中継を見るつもりで、だからこそユキにも江の島で見ていて欲しいと思うのかもしれない。いや、きっとそうだろう。
 夏樹の態度をそんな風に理由づけしていると、昨夜は夏樹の方から電話がかかってきた。
『明日のお客さん多そうか?』
「そんなの前日にわかるわけないだろ。なんだよもう」
『いや、ユキが花火見られるといいなと思って……』
「………」
 募らせた寂しさに、思わず「夏樹が隣にいないのにそれでも見ろって?」と言いかけてそれは禁句だと思い直す。離れた距離にもようやく慣れてきたのに、今さらそんなことを言って互いに気まずくなるのはつらいことだ。言ってもどうにもならないことを嘆くのはユキの趣味ではなかった。人はそれをあきらめとも呼ぶ。
「大丈夫。ちゃんと見るよ、花火」
 夏樹もきっとユキと同じ気持ちでいるのだろう。お互い納得したうえで離れ離れでいるのだとしても、寂しいものは寂しいのだから仕方がない。ユキと同じように、夏樹もきっと寂しいのだろう。ユキは先週に引き続き、今回もそうやって結論づけることにした。夏樹がそう願うのなら、ユキは今年も花火を見る。客がいたならなるべく素早く対応して、花火を見る。それだけだ。――たとえ隣に夏樹がいなくても。
『そっか、ならいいけど。お客さんあんま多くないように俺もこっちで祈ってるから』
「うん、よろしく」
 花火が中継されるアクセス先のアドレスは夏樹も知っている。明日の夏樹がよほど疲れて睡魔に負けそうでなければ、きっと海のむこうとこちらで一緒に見られるだろう。 (一緒にいられなくてもいいよ、同じものを見てることに変わりはないから)



『さあ、続きまして恒例の、メッセージ花火の始まりです』
 ユキは花火大会らしい花火大会をこの江の島でしか見たことがないが、最近はどこの花火大会でもスポンサーの確保のためにメッセージ花火を募集しているらしい。知らない人の名前に感謝や愛の言葉がアナウンサーの口から次々と読み上げられ、合わせて花火が打ち上げられていく。
『今夜ここに集った皆さんはとても幸運です。さあ続きまして、花火大国の日本でもあまり目にする機会の少ない、珍しい花火をご覧に入れましょう』
 それまでと少し口調の変わったアナウンサーの台詞に浜にいた人々がどよめきを返し、ユキの周囲からも「珍しいんだって」「どんな花火だろうね」と期待の声が聞こえてくる。
『リクエストはN様より。伝える気持ちはY様へ。――隣にはいられないけど、今夜は中継を見ています。遠く離れていても、いつもあなたのことを考えています』
「………」
 NとYのイニシャル。そして続いたメッセージの内容。まるで自分と夏樹にそっくりそのまま当てはまっているようで、ユキは寝そべった芝生の上で、自然と笑みを浮かべていた。
(世の中には似たようなカップルもいるんだなあ)
 NさんとYさんも、ユキと同じように恋しい人と離れ離れでいるのだろうか。どこにいるのかもわからないふたりに向けてひっそりエールを贈り、ユキは“珍しい花火”が上がるのを待つ。
『さあそれでは花火をご堪能ください!』
 アナウンサーの声が合図となり、再び花火の乱れうちが始まった。背の低い弾幕花火を越え、上を目指す一条の光。きっとそれが“珍しい花火”
 あまり大きくない音と共に花火が弾けた。それまで夜空を彩っていた金色とも赤色とも違う青白い色が、空に溶けていく。
「わあ、青い花火よ歩ちゃん。見た? 確かに珍しいわ」
「でもなんの花火だったかわかりませんね」
「そうねえ」
 ユキもそれが大きく開く花火ではなく、模様をかたどったタイプの花火であることはわかったが、全体的に光がばらついてとても判別はできなかった。
(青白いものってなんだろう……)
 ヒヨコは黄色い色だった。写真でしか見たことはないが、ハートの花火は赤色をしているという。
 モチーフを考察する人々の目の前で、二発目三発目と火の花が咲いていく。一発目よりもくっきりと浮き出た模様に、「あっ、模様わかった!」「わー初めて見たー」と、アナウンサーの言葉に納得する声が人々から聞こえた。ユキの目にも、その模様が今度はくっきりと見える。
(あの模様、もしかして……)
 夜空に弾けたその模様に、ユキは心当たりがあった。本物を見たことは数えるほどしかないが、写真や絵でなら何度もある。古くは理科の教科書に載っていたし、去年のクリスマスにさくらが半紙を切り抜いて窓に貼り付けていたのを覚えている。それならば、花火の色が青白い光だった理由も頷ける。少なくとも、赤や黄色よりは夜の空に似合っている。
「ねえユキ、なんの花火だったの? ボクわからなかった」
「さあ、俺もわかんない」
 六角形をしていることで有名なそれを、ハルはまだ見たことがないのだろう。ハルはまだ地球の冬を知らないのだから無理もない。冬にしか存在できない美しくも儚いそれは、人肌にもろく一瞬で消えてしまう。けれどそのわずかな時間しか存在できない輝く美しさは、花火のように心に残る。
 ユキはハルから飛んだ質問に答えてやることができなかった。その名前を口にしてしまえば、メッセージのNが夏樹でYが自分のことではないかと期待してしまう気持ちを止められない気がしたからだ。
(だってほら、偶然かもしれないし)
 イニシャルがNとYの人間なんて、世の中にごまんといるだろう。そうはわかっていても、それが遠距離恋愛中のふたりとなれば、それが夏樹とユキである可能性は跳ね上がる。おまけにあの花火の模様だ。
 それに、夏樹はあんなにも「花火ちゃんと見ろよ」と言っていたではないか。
 もしかしたらとユキの心が期待に膨らむ。
「……どうしよう」
 声をあげて髪をかきむしって、思うまま走り出したい。この人ごみでそれは叶わないけれど。
 それから後の花火を、ユキはよく覚えていない。目をつむり、音だけを聞きながらひたすらに青白い火花の軌跡を頭の中に思い浮かべていた。花火大会を締めくくるのは、この湘南地方で唯一見られる二尺の大玉花火。それすらも、今日のユキの中でまるで響かない。


「今日は3人とも本当にありがとう」
「よく頑張ってくれて助かったぞ」
 花火大会は盛況のうちに終了した。ヘミングウェイもその恩恵にあずかり、一日で一週間分に近い売り上げを得たという。海咲と歩から送られるねぎらいの言葉を、ユキはふわふわと落ち着かない気持ちで聞いていた。心ここにあらずで、青白い花火のことしか今は頭にない。
「3人とも、しばらくはのんびりしていけばいいわ」
 店は閉めたものの、弁天橋の人波が引くまでにはまだかなりかかるだろう。
 海咲の好意に甘えることにしたハルやウララをヘミングウェイに残し、ユキはひとりで店を出た。流れに逆らって橋を渡るのが大変だということよりも早く家に戻って、ゆっくり夏樹と話がしたかった。
 なんとか橋を渡り終え、江島神社へさしかかるころにはようやくスムーズに動けるようになってきた。ユキは電話を握りしめたまま坂道をもろともせずに走り抜ける。出迎えてくれたケイトがユキの様子に驚いて、水を差しだしてくれた。ハルとウララが戻るにはもう少し後になることを告げ、少し疲れたからと自室へ戻る。


 ベッドに腰をおろし、深呼吸をひとつしてユキは夏樹に電話をかけた。時差なんてものを気にしてはいられない。それにユキの思い過ごしでなければ夏樹はきっとまだ起きていて、ユキからの電話を待っているはずだ。
『はい』
「……花火見たよ、ちゃんと」
『俺も見たよ。ちゃんと成功してよかった。中継じゃメッセージまでは聞こえなかったけど、ユキにはちゃんと聞こえたろ?』
「うん、ちゃんと聞こえたよ」
『なら良かった』
 やはりユキの想像は間違っていなかった。花火とメッセージの送り主は夏樹で間違いない。読み上げられたメッセージを思い起こしては噛みしめつつも、それにしても、とユキだって思わないではいられない。
(なんか様子が変だなと思ったけど)
 それがまさかこんなサプライズを用意していたとは。少々と言わず、かなり大げさだ。そして気障ったらしい。――ある意味とても、夏樹らしい。でもそれが、ユキにはとてつもなく嬉しかった。
 夏樹はこうして、いつだってストレートに気持ちを伝えてくれる。距離も時間も飛び越えて、あきらめがちなユキに伝えてくれる。
「……無理しちゃって、バカだろ」
『ひでーな』
 メッセージ花火は一般人からスポンサーを募るのだから、ある程度は考慮された参加しやすい金額設定がされているはずだ。ただそれは社会人ならばという前提に基づいたもので、学生のユキに到底手が出せる金額ではない。
 夏樹がいくらプロだとしても、スタートラインに立ったばかりの駆け出しにとってはそうたやすく出せる額でもないだろう。
「俺がお客さんの相手してて見てなかったらとか、見ててもまるで気付かなかったらどうしようとは思わなかったのかよ。誰にも気づかれてなかったから良いようなものの、あんな恥ずかしいこと……」
『恥ずかしいとか言うな。それにあらかじめ言ってたらサプライズにならないだろ。それにユキは見てたし、ちゃんと俺からだって気づいた。だから、結果的にそれで良かったんだよ』
「……ありがとう」
 どちらもそれ以上はなにも言えず、しばらく電話のあちらとこちらで沈黙が続いた。それはもちろん嫌な沈黙ではない。でもこれ以上に、なにをどう言っていいのかわからない。――照れくさいのもある。
 先に沈黙に耐え切れなくなったのは夏樹の方だった。
『……本当だぞ』
「なにが?」
『いつだって、ユキのこと考えてる』
「……俺もだよ。いつも夏樹のことを想うよ」
『ありがとな』
「うん」
 そこでユキは、階下からハルとウララがユキに遅れること数分で帰ってきたのに気づいた。なるべく急いで帰ってきたつもりだったが、弁天橋でかなり時間を食ってしまっていたらしい。夏樹との通話を「じゃあまたね」で終わらせて部屋を出る。
「ただいまー!」
「ただいまであります」
「おかえりなさい」とふたりを出迎えるケイトの声がする。
 にぎやかな声はリビングへと移動し、ソーサーとカップのこすれる音がしているからきっとケイトがふたりのために紅茶の支度をしているのだろう。
 ハルとウララの興奮はまだ冷めていないようで、今日見た花火について代わる代わる口を開く声が聞こえてくる。滝のような花火とはきっとナイアガラのことで、一番大きな花火というのは最後の二尺玉花火のことだろうか。
 ユキが階段を半分ほど降りたところで、ハルがメッセージ花火のことを話し始めた。その中で打ち上げられた、日本でも珍しい花火のことがいたく気に入ったらしい。ユキの足はその場で止まってしまう。あの花火の話題に、そ知らぬ顔で加われる自信がユキにはない。ユキは扉に手をかけたまま、花火の話題が切り替わるのを待つ。
「とてもめずらしい花火だそうで……。ケイト殿はお気づきになりましたか」
「ええ、ちゃんとこの家からも見えたわよ」
「海咲ねえに『これが元だよ』って写真見せてもらった!」
「とてもきれいだったのです。わたくしもはじめて目にしました」
「まあ、ウララも見たことなかったの。良かったわねえ。私もあんな花火は初めて見たわ」
 ケイトですらも見たことがなかったのであれば、あの花火は確かによほど珍しい花火だったのだろう。それほどの花火を夏樹はどうやって探したのだろう。いったい総額でいくらかかったのだろう。詳しく聞いてみるのは、気持ちを贈ってくれた夏樹にたいして無粋な行為だろうか。
「冬になったら江の島でも実物が見られるかもしれないって、海咲ねえが言ってた」
「ええ、ですからわたくしもぜひ見てみたいのです」
 ウララは初めて自分の手で魚を釣り上げたときのように嬉しそうにしている。ユキは冬なんて寒いだけだとずっと思っていたけれど、ハルやウララに冬の楽しみができたのなら良かったのかもしれない。
「見られるといいわねえ」
 ガラス扉の向こうで、ケイトがふたりに向かって優しく微笑んだ。

「雪の結晶」



 ――離れていても、いつもあなたのことを考えています



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   夏樹渡米後の江の島花火大会にて。とにかくふたりがふたりでいて幸せならば良し!と思っています。



TOPつり球